第543回:ツーリスト・ゴー・ホーム
相当ヨレてきた両親の元で師走を過ごしています。寝てばかりいるアルツハイマーの母親に付き添っているのです。母は時折、パッと目を覚まして、徘徊したり、クローゼットのドアをトイレと間違って開け、入ろうとするので、目を離せません。ただ、側にいるだけで何もすることがありませんので、古臭い文学全集を読む時間を持てるのが慰めと言えば言えないことはないでしょう。
今では読む人がいないサマセット・モーム(モームさんごめんなさい。教科書には例文として登場しているかもしれませんが…)の“Cake and Ale”(『お菓子と麦酒』、麦酒とはビールのことでしょうね…)を読んでいたら、彼の育ったブラックステイブルの町では、夏の避暑客などは下品な人種で、相手にしないものだった。第一、ロンドンの人間は教養がなく、夏だけ来る彼らを地元の住人は迷惑に思っていたと書いているのに、驚かされました。
一体、何百人、何千人の避暑客がブラックステイブルを訪れていたかは分かりませんが、ツーリストを嫌う性向がそんな昔からあったことに軽いショックを受けたのです。というのは、最近、特に観光客はいらない、来て貰いたくない、“ツーリスト・ゴー・ホーム”の現象、まだ運動とまでは言えませんが、囁きが愚痴から大声で叫ばれるようになってきているのです。とりわけ、地中海のヴァカンス天国、スペイン、ポルトガル、ギリシャの国々で普通の生活をしている人たちが夏の3、4ヵ月だけの観光客騒動を嫌い、はっきりと、「もう、あなたたち、来てくれるな!」と訴え始めたのです。
とは言っても、観光産業に大きく頼って生きている人たちも多く、スペインでは全就業人口の13%は何らかの形でヴァカンス客に関係のある仕事に就いていますし、GNPの10%は観光業が占めていますから、とても無視できるような数字ではありません。極端に言い切れば、貧しいスペインのアンダルシア地方にヴァカンス客が誰も来なくなったら、アンダルシア地方の経済危機どころか、すでに巨大な負債と失業者を抱えているスペイン全体の破滅に繋がりかねません。
と、多少は内情を知っているスペインに付いてだけ続ければ、ウチのダンナさん、山籠りの仙人になる前に、スペインの避暑地で至って俗な中華料理屋のオヤジ業をやっていましたので、観光客が落とすお金の力、それがなければ食べていけなくなる現地の人たちがワンサといる現実をよく知っているのです。
旅行業者だけでなく、ホテルの下働き、レストランやバー、カフェテリア、ブティック、土産物屋さん、ところ狭しと路上に張り出した夜店、テキヤ、夏のハイシーズンにヴァカンス客と無関係に生活している人を探すのが困難なほど、誰もかれもが何らかの形で夏のヴァカンスをこの地で過ごす人たちから収益を得ているのです。
痩せた土地を抱えて食うや食わずだったお百姓さんでさえ、離れの納屋を改造していかにも鄙びた農家に仕立てあげ、ひと夏相当な料金で賃貸したりしています。そうなると、我も我もと周囲の農家は右へならえを始め、現地の旅行会社もそんな農家と契約し、納屋をリストアップして、日程に隙間ができないようにドンドン観光客を送り込むようになってきたのです。
一旦、金の生む木を持ったとなると、誰が汗水流して畑で働くもんですか。黙っていて何もせずに、今まで農作物を売って得ていた現金収入をはるかに上回るものが懐に転がり込むのですから、炎天下で土地を耕せと言う方が無理な話になるのです。
“ツーリスト・ゴー・ホーム”には、それなりの理由はあります。そこに暮らしている人たちにとって、第一に、アパートなど住むところが見つからなくなり、万が一空きがあっても異常に高額で、とても普通の給与生活者が借りられる金額でなくなってしまったのです。不動産の値段も、北欧、ドイツ価格になり、地元の人にはとても手が届く上限を超えてしまい、それに日常の生活費、食料の値上がりも激しく、郵便局員、銀行員、公務員、教員の生活を脅かしています。
付け加えて、“ツーリスト・ゴー・ホーム”ムーブメントには、太陽と海しか持たない者の、持てる者へのやっかみや嫉妬の感情が多分にあるように見えます。イギリスやドイツの工場労働者がやってきて、王侯貴族とまではいかないでしょうけど、1ヵ月間、安いワイン、リキュールを飲み続け、酩酊しっ放しで過ごすのです。そんな人たちに接しなければならない、ホテルやレストラン、バーで働く現地人の人権?感情は無視されます。当然、反感が生まれるのも分かるような気がします。
観光客に頼らなければ現金収入の道がなくなることは、彼らは理屈として充分判っているのでしょうけど、いつも召使のように扱われるのに耐えられなくなるのでしょうか、ドイツ人、イギリス人、北欧の人たちが、スペインからスペイン人がいなくなれば、豊かで素晴らしい国になる、逆に言えば、スペイン人自身がナマケ者で企業性、協調性がなく、官僚的、排他的だから(これらは全く事実に反するのですが)、だからいつまでたってもEUのお荷物なのだ、我々が払っている税金でスペイン経済や国を支えているのだという態度を見せられ、匂わされると、誰でもが、「お前たちはもう来なくていい」と言いたくもなります。
もうすぐ私も定年退職ですが、窓の外に洗濯物を干さず、必ず花を飾り、磨いたばかりの歯のように清潔でゴミ一つ落ちていない町並みの北欧、ドイツ、イギリスで晩年を過ごしたいとは思いません。効率的に物事を運ぶことが苦手なスペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャなどの地中海の国の人たちの中で、人間的、感情豊かな人たちの中で暮らす方が、はるかにリラックスできるのではないかと思っています。
“ヤンキー・ゴー・ホーム”とヤラレルまでは……。
-…つづく
第544回:他人の目、他人の懐
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