第538回:冤罪と闘う“イノセンス・プロジェクト”
死刑囚が死刑に処される前に、ここではキリスト教のお坊さん(司祭、牧師)が付き添い、懺悔を聞く習慣があります。何か言い残すことはないかとでも訊くのでしょうか。その時、相当数の死刑囚は自分が無罪だと言うそうで、自分は人を殺したのだから、死刑になって当然、潔く死んでやるという人は例外中の例外らしいのです。
人間が人間を裁くのですから、そこには間違いが必ず付きまといます。無実の罪で裁かれ、死刑がある国では、殺されるケースが必ず出てくることでしょう。ナチス時代のドイツやスターリンのソビエト、中国の文化大革命時代の人民裁判では、初めからコイツは有罪、死刑と捕まえた時に決まっていたようなものですが、なかなかアメリカも負けていません。
アメリカには冤罪の伝統があり、有名になった“サッコとヴィンセント”事件、“ローゼンバーグ夫妻”事件など、政治的な事件の陰に膨大な人たちが自分が全く犯していない罪で死刑になっています。スーザン・ヘイワード主演映画『私は死にたくない』(原題:I want to live)や『審判』(これはフランス映画でしたが…)は冤罪を取り上げた名作です。
悪いことに、アメリカの南部では、裁判などという手間隙をかけることなどする必要はない、吊るしてしまえ、リンチに掛けろという冤罪以前の問題も未だに残っています。
アメリカの裁判には、建前として、被告には公選弁護人(アメリカでは州選と呼ぶべきでしょうか)が付くことになっています。社会意識のある若手の弁護士が、このほとんどボランティア的な公選弁護士の役を引き受けていますが、独自に調査するお金も、時間もなく、しかも100件以上を同時進行で扱っていると言われていますから、とても一つひとつのケースを懇切丁寧に弁護しているとは言えないのが現状です。
ニューヨークの二人の若手刑事弁護士が経験を積むため公選弁護人を務めていた時、あまりに間違った判決が多いことに気づき、無実の徒刑囚を救う『イノセンス・プロジェクト』と名づけたボランティア活動を1992年に始めました。バリー・シェック(Barry Scheck)とピーター・ネイフィールド(Peter Neufeld)の二人です。彼らは死刑や無期懲役の判決を受けた囚人の判決の多くが、いかにズサンな事実関係に基づいてなされていたかを知り、当時一般化してきたDNA鑑定で判決を覆したのが始まりです。
現在まで、351のケースで判決を覆し、20人の死刑囚を死刑執行前に救っています。こう書くと簡単そうに聞こえますが、官憲、特に司法官僚、そして裁判所は一旦下された採決、判決を固持したがり、よほど確固たる新事実でもない限り、もう一度事件を洗い直し、裁判をやり直すことをしません。これはどこの国でも同じでしょうね。それに、判決を覆すには、途方もない労力、時間、そしてお金がかかります。今では、大勢の法科の学生、弁護士の卵、DNA鑑定技師たちのボランティアを得て、アメリカ全州に活動の本拠を置くまでになりました。
『イノセンス・プロジェクト』のサイトで個々のケースを閲覧することができますが、15年服役し無罪放免になった、20年以上も死刑執行を延期されながら繋がれていた、などなど、とても全部読み通す気力が消え失せてしまうほど、悲劇が並んでいます。
その多くは、黒人か社会の底辺であえぐ人たちで、それ以前に小さな犯罪、万引き、恐喝、末端の麻薬の売人などの前科があり、殺人、殺人幇助、強姦、誘拐などのホントウの犯罪に関連していたとして逮捕され、警察官や検事の点数稼ぎの犠牲になり、死刑、長期拘留の判決を受けているのです。裁判にはお金がかかりますから、検察側も判事も社会のクズのために税金を無駄に使うことはない、善良な納税者のためにも即決し、社会のクズを牢にぶち込んでしまえ、という態度が見えみえなのです。
この冤罪が蔓延する要因には、少し奇妙に思えることですが、そのような容疑者が進んで自分の罪を認めてしまうことにあります。これは“プレバーゲン”と呼ばれ、裁判にかける前に、警察や検察側が、今、お前がコレコレの罪を認めるなら、正式の裁判で下されるもっと重い罪、死刑や無期懲役ではなく、15年、20年の刑で済ませることができると…、容疑者と検察がバーゲンセール取引を行うのです。犯罪者のすべてとは言いませんが、意思薄弱な容疑者はツイツイそのようなプレバーゲンに応じてしまうのです。現在、このように自分自身が犯していない罪を認め、牢に繋がれている人は16万人に及ぶと言われています。
ロドニー・ロバートは、1996年に誘拐、強姦の容疑で逮捕され、誘拐だけの罪にしてやるから自白しろ、罪を認めろ、そうすれば20年の刑で済むが、さもなくば強姦罪で摘発し、無期もしくは30年以上の刑になると、悪魔の選択を迫られ、服役しました。ロドニー・ロバートは自分が見たこともない女性を誘拐した罪で牢に入ったのです。
彼の優れたところは、牢獄の中で法律、特に刑法を勉強し、自分で救済の道を探ったことです。大変な苦労をして、深い洞窟のような絶望から彼は立ち上がり、18年後にやっと釈放されました。現在、彼は無実の罪で服役している人たちを救うため、法律事務所でアシスタントをしています。(Reader’s Digest 2017年6月号)
人間が作り、行っている裁判制度ですから、そこには必ず間違いが付いて回るのは避けられないでしょう。でも、アメリカにはあまりに冤罪が多すぎるのです。社会の底辺で暮らす人たち、主に黒人、スパニッシュと呼ばれる中南米からの移民、僅かですがプアーホワイトがその犠牲になっているのです。
『イノセンス・プロジェクト』に関わっている人たちの唯一の喜びは、無実の罪で長い間牢に繋がれている人たちが牢から解き放され、自由になることだけです。名誉欲とか金銭的な利益が全くない彼らの活動に対して、憧憬を伴った尊敬の念を抱かずにはいられません。
第539回:プエルトリコ~ハリケーンの悲劇
|