第423回:白く巨大な慰霊碑 - 福知山線 1 -
運転室の後ろに張り付く父と小さな息子。父親は両手を前に出し手摺りを握る。その2本の腕をまたぐ形で息子が座っている。特等席だ。うまい方法を考えたな。父親が息子を股下から抱き上げて掴まるとこうなる。降ろす時はどうなるんだろう。握った手を離す時に気をつけないと、こどもが落ちる。成り行きを見ていたいけれど尼崎駅に着いてしまった。ここで電車を降り、福知山線に乗り換える。
次の電車は15時59分発の丹波路快速篠山口行きだ。乗り換えサイトの検索によると、篠山口着が16時59分。接続する列車は17時02分発で、谷川駅発着が17時22分。福知山駅着が18時09分。日没までには到着できる。そう思って安心したところで、駅の構内放送が気になった。
福知山線も遅延中。時計と列車の時刻が合わない
都会の駅の放送は自動化が進んでいる。自動放送ではなかった場合は、なにか異常事態が起きている。宝塚線が遅れているようだ。宝塚線は福知山線の愛称だ。長らく国鉄時代の正式名称を使っていると、正式名と愛称をいちいち照合しなくてはいけない。面倒な事である。
それはともかく、異常事態はなにか。案内表示器を見ると、30分前に発車したはずの列車を表示していた。大阪環状線も遅れたけれど、宝塚線も遅れているようだ。原因は同じで架線に付着物。場所は違って、宝塚線の伊丹と北伊丹の間であった。「強風の一日。交通機関も混乱」今夜のニュースはそんな話で始まるだろう。
各駅停車新三田行き。321系電車
ニュースか……。私はこれから乗る福知山線の、7年前のニュースを思い出さずにはいられない。2005年4月25日。午前9時過ぎだった。福知山線の上り列車が脱線転覆し、100人以上が亡くなった事故である。その事故現場をこれから通る。未乗区間だから、いつかは乗りたい。しかしそれをいつにすべきか、正直なところ、なんとなく避けていた。
事故があった時、私は自宅で作業中だった。テレビのスイッチを入れて、ニュースショウを流していた。これは手作業をしている時の習慣で、こうして世の中の動きにアンテナを向けている。ニュース速報のチャイムが鳴って、画面に顔を向けると、キャスターが鉄道事故があったらしいと言った。やがてヘリコプターからの空撮映像になり、電車がひっくり返っていた。こどもが遊び飽きて放り出した玩具のようだった。
混んでいた先頭車。誰もがそれぞれの時間を過ごす
空撮に映っていた車両は6両。テレビを見ながらネットを検索してみると、福知山線は7両編成という。先頭車はマンションの駐車場に飛び込み、圧縮されていたため空からは見えなかった。その後の凄惨な状況、原因調査、遺族の悲しみ、怒り。亡くなった方の無念……。それはメディアを通じて多くの人々が目撃し、怒り、悲しんだ。当事者の心情には及ばないだろうけれど、私も心の奥に傷を残している。鉄道好きにとって、鉄道事故は心の痛む事象である。
私の旅は列車に乗る遊びである。悲しい記憶が残る場所に、遊びに行っていいだろうか。物見遊山の気分で乗ってはいけない。しかし、この記憶はいつになったら過去になり、歴史になるのだろう。原因調査は長引き、責任問題も混迷。JR西日本幹部への裁判も長期にわたった。1月に地方裁判所で社長に無罪判決が出た。控訴があればさらに長引く。
車内表示器に遅れの原因が映しだされた
その間に事故の生存者が精神的な後遺症で自殺したり、亡くなった方の婚約者が絶望して自殺したりした。家族になっていれば補償や精神的加護が受けられて、これから家族になる予定だった人には何もない。そんな残酷な線引きも行われていた。そういう路線には遊びに行けない。現場に花を手向けようとも思ったけれど、遺族に縁もない身分では不自然だ。
そうかといって、乗らなければ全線完乗という目的は達せられない。せめてなにか用事がある時に、仕方なく乗りたい。だからといって東京住まいの私に乗るべき用事があるはずもない。態度を決めかねたまま、とうとう来てしまった。
戸惑いながらも、いっそ他の路線と別け隔てなく、乗るべき時に粛々と乗ればいい、と決めた。事故が起きた場所を忌避すれば、三河島や桜木町も通過できない。私の最寄り駅は日本の鉄道史で初めて人身事故が起きていた。鉄道が開通して140年。事故は大小いくつも起きていて、いちいちこだわっていられない。
東海道線を超えて北へ向かう
乗るべき時が来た。それだけのことだ。もう尼崎駅に立っている。予定していた15時27分発の丹波路快速が、まだ到着していない。その前に各駅停車が発車するから、ひとまずその列車に乗った。前にすすめる時は進んでおく。ダイヤが乱れた時は何が起きるかわからない。丹波路快速を待ったところで運休するかもしれない。運休して、後続の列車を定時に走らせればダイヤを回復しやすくなる。実家の近くを通る路線バスが良くやる手だ。利用者としては腹立たしい荒療治。でも有効ではある。
15時51分。各駅停車の新三田行きに乗った。本当は15時21分発の列車であった。かなり混んでいたから、先頭車中程の空いている扉を選んだ。しかし、思い立って運転台の後ろに向かった。立っている人をかき分けていく。運転台の後ろは混雑していた。それが私には意外であった。混んでいる電車だから、他の路線では当たり前の状況である。しかしここは福知山線だ。もっとも被害が大きかった先頭車運転台後部を怖がる人はもういない。よそ者が逡巡している間に、現場は事故の記憶が過去になっていたようだ。
事故現場のマンションが見える
尼崎駅を発車した列車は勾配を上って東海道線をまたぎ、地上へと降りていく。その正面に白い建物がそびえる。これが、脱線した電車に突入されたマンションである。入居者はすべて転出し、新しい建物ではあるが無人の廃墟になった。JR西日本がこの建物を買い取り、慰霊碑を立てるという話もある。もっとも、事故現場を見た人からすれば、この建物自体が慰霊碑ではないだろうか。
列車はマンションの横のカーブを通過した。私は何もせずに通り過ぎるつもりだったけれど、衝動的にカメラを取り出し、マンションの写真を撮った。周囲の人々はそんな私に「何をしているんだ……ああそうか」という表情をみせた。私は、なんでカメラを取り出してしまったのだろうと少し後悔した。見物ではないのだ。今後の仕事の上で、資料として写真が必要なんだと、心のなかで言い訳をし、心のなかで手を合わせた。
現場はまだ保存されているようだ
-…つづく
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