第409回:八郎潟とジュンサイ沼 - リゾートしらかみ1 -
男鹿駅構内にぽつんと建っていた車庫から同じ色のディーゼルカーが引き出されて、私たちが乗ってきた列車に連結した。07時16分発の上り列車こそ、この時間の主役である。思っていたとおり、秋田行き普通列車は途中の駅で乗客を増やし、追分から先はかなり混んで立ち客も出た。
窓の外に目を向ければ、雨が降り出し、だんだん激しくなっている。今日は五能線に乗りに行く予定である。五能線と言えば冬の荒波に洗われる線路、というイメージだ。しかし私が乗ったときは春と夏で、車窓は南国のような青い海だった。今日は雨模様だろうか。荒れた日本海を眺められるか、と期待する。
機関車群の奥にカシオペア専用機がいた
土崎駅を過ぎると左手に機関車の群れが見える。JR東日本の秋田総合車両センターだ。赤い交流機関車の向こうに隠れて、白・黄・青に塗られた機関車が見える。寝台特急カシオペア用の塗装を施したEF81だ。今は後任のEF510に役目を譲っている。M氏によるとEF81は廃車の運命だという。ここは以前、土崎工場と呼ばれていた。機関車を作るところであり、解体するところでもある。
秋田駅着08時13分。これから乗る『リゾートしらかみ1号』は08時24分発。10分間で駅弁を調達し、車両の写真を撮る。リゾートしらかみには専用の車両が開発されており、くまげら、ブナ、青池、という愛称が与えられている。このうち青池は1年前から新型のハイブリッド気動車になった。くまげら、ブナはキハ40系からの改造車だ。
歌舞伎色のくまげら編成
最新型の青池に乗りたかったけれど、ホームにいる列車はくまげらだった。白地に黄色と朱色をあしらい、歌舞伎役者のような顔つきをしている。名前の由来はブナ林に生息するキツツキ科の鳥で、体は黒く、頭頂部が赤い。そのクマゲラがどうして歌舞伎色になってしまうのか。黒と赤の方がかっこいいと思うけれど、イメージが悪いのだろうか。
外観はともかく、くまげらの室内は心浮き立たせる。なにしろ窓が大きい。上下の開口が広く、これなら眼下の海から青空まで見渡せる。観光列車ならではの思い切った設計である。座席は特急列車のようなリクライニングシートで、前後の間隔ゆとりがあるようだ。足下が広いだけではなく、前席の背もたれを遠ざけるから、視界も広げてくれる。
先ほどの雨は通り雨だったようで、陽光が降り注ぐ。さあ、今のうちに弁当を食べよう。朝食抜きで男鹿線を往復したから腹が減った。それに、まだしばらくは奥羽本線だ。五能線の分岐点、東能代駅までは1時間ほどある。いわば前座の風景で、昨日の朝「あけぼの」でも見た。下を向いて弁当を食べる時間である。
秋田比内地鶏弁当
私は「秋田比内地鶏弁当」で、M氏は「鶏わっぱ」。どちらも鶏スープで炊いたご飯に鶏そぼろをのせ、メインのおかずは鶏の照り焼き。鶏肉好きの私には涙が出るほどうれしい内容だ。私はカロリーダイエット中だが、旅の間は解禁する。だから久しぶりの肉食である。そもそも鶏肉系の駅弁は滅多にはずれがない。鶏肉をまずく調理する方がどうかしている。つまり私の弁当はとても美味で、M氏の弁当も美味であろう。私はわかっているから「ひとくちちょうだい」なんて言わない。
鶏わっぱ
弁当を食べている間も、再び通過する秋田総合車両センターを見逃さない。赤い機関車の群れは先ほどと変わらず。その後、車窓に水田が広がり、列車は八郎潟駅に停車した。線路のそばは八郎潟ではないけれど、この付近も広い水田地帯である。動き出してしばらくすると、水路の向こうに水田地帯が望める。あれが八郎潟だ。
この角度だと、本当に広いのかわからない。水田の地平線が見えるかと思ったら、一直線に木が並んでいる。きっとあのあたりに通路か水路があって、風よけの並木があるのだろう。その向こうの遠くに男鹿半島の山が見えている。あの麓まで水田だと想像力を働かせれば、その広大さがなんとなくわかる。
八郎潟を望む
八郎潟は小学校の社会科で教わった。「日本は土地が狭くて近代的な農業ができませんでした。そこで八郎潟に広大な農地を作り、大きな機械を使った大規模で近代的な農業ができるようになりました」というような話だ。その話を聞いて、ああよかった。ご飯をいっぱい食べられると思った。その日、母の実家でご飯を6杯もおかわりし、祖母をびっくりさせ、叔父や叔母に囃子たてられたことを覚えている。
その八郎潟干拓事業の歴史は古く、江戸時代までさかのぼるという。明治、大正と米不足になるたびに計画が生まれ、膨大な費用がかかると頓挫する。昭和になると戦時下の食糧計画という名目で本格的な事業が立ち上がるも、漁業サイドからの反対と、戦時下の資材人手資金不足で実施不可能になった。
現在の干拓事業は戦後の食糧不足を解決するためだったという。1957年に着工し、1967年から入植が開始され、1977年に完成した。1967年と言えば私が生まれた年。1977年は小学校高学年で、ちょうど私が授業で習った時期である。きっと旬の話題だったのだろう。
展望スペースの眺め
そんな米どころの景色を見ながら飯を食う。ありがたいことである。そして旨い飯はすぐに食べ終わってしまう。私は車内の探検に出かけた。先頭車は運転席の後ろが展望スペースとなっている。先客がひとりいて、その隣に座って前方を眺めた。列車は水田から丘にさしかかるところで、防風林と林の間をすり抜けていく。運転士さんの表情は見えないけれど、こんな景色を運転するなら気分もいいだろう。
展望スペースには列車の車窓を紹介するパンフレットがある。スタンプ台も置いてあった。乗車記念と書かれた小さな用紙にスタンプを押した。ちょうどそのときに車内放送があって、左手の沼にジュンサイの花が咲いているという。ジュンサイは、お吸い物に入っている、ぬるっとした野草である。どんな色の花だろうと注目していたら、緑の絨毯の中にピンク色の模様が並んでいた。私もほかの乗客たちも、「ほぅ」と声を上げた。
ジュンサイが満開
前座の景色だなんて申し訳なかった。八郎潟、ジュンサイ、そして赤い機関車たち。奥羽本線の車窓は見応えがあった。
-…つづく
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