■ダンス・ウィズ・キッズ~親として育つために私が考えたこと

井上 香
(いのうえ・かおり)


神戸生まれ。大阪のベッドタウン育ち。シンガポール、ニューヨーク、サンフランシスコ郊外シリコンバレーと流れて、湘南の地にやっと落ち着く。人間2女、犬1雄の母。モットーは「充実した楽しい人生をのうのうと生きよう」!


第23回:ニューヨークの惨事について私たちができること
第24回:相手の立場に…

第25回:「罪」から子供を守る

第26回:子供に伝える愛の言葉
第27回:子供の自立。親の工夫

第28回:ふりかかる危険と自らの責任

第29回:子供はいつ大人になるのか? ~その1

第30回:子供はいつ大人になるのか? ~その2

第31回:子供はいつ大人になるのか? ~その3

第32回:Point of No Return
第33回:かみさまは見えない
第34回:ああ、反抗期!
第35回:日本のおじさんは子供に優しい??

 
第36回: 子供にわいろを贈る

更新日2002/05/16 


買い物に行く。別に特別な買い物ではない。毎日の食事に必要な買い物をしにスーパーに行く。たったそれだけのことに、どうしてこんなに時間がかかるのか、と思ったことはないだろうか。もちろん、子供を連れているから、である。

たまに週末などに、夫に子供を見ていてもらって、一人で出かけるとあっという間にすむ。けれども、普通はそうはいかない。上の子が小学校に入って、給食が始まったとはいえ、昼の1時半には帰って来る。その午前中は、掃除、洗濯に始まって、家の中の片づけをしているとあっという間に終わってしまう。たまには、下の子と二人だけで公園にも行きたい。そうなると、日常の買い物は子供2人を連れて出かけることになる。

近所のスーパーでさえ、子供にとっては欲しいものが山のようにあるワンダーランドであるらしい。さらに、上の子は野菜やパンや牛乳しか買っていなくても、「ママは自分の欲しいものを欲しい分だけ買っている」ように思えるらしい。だから、「たまちゃんにも何か買って」と言う。私の時間と気持ちに余裕があれば、「じゃあ、食パンを選んで来て」とか「ジュースはりんごがいい?オレンジにする?」などと子供に選ばせてやれる。しかし、毎回そうとは限らない。

アメリカにいた時に、毎日の買い物が大変だと思ったことはなかった。理由の一つには、当時は子供はひとりだった、ということがあるが、それだけではないような気がする。良く思い出してみると、理由がわかった。

日本でもそうだが、アメリカのスーパーは入り口を入るとそこは野菜と果物がおいてあった。日本とは違って、アメリカのスーパーは野菜や果物などはパックに入っておらず、山積みにされている。それを消費者が自分で選んで、ビニール袋に詰め、欲しいものを欲しい分だけ買えた。だから、よく環に「今日はりんごを5つ買いましょう」と言ってはショッピングカートに座っている環に選ばせていた。「傷がないものを選んでね」とか「赤いりんごは全部が赤くなっているものがいいのよ」とか選ぶ基準を教えて自分で取らせた。環も「今日はじゃがいもはいくつ買うの?」などと、いっぱしの買い物気分を味わっていた。そして、それは彼女にとっては大変に面白い作業であったようだ。

それだけではない。帰国直前に日本人の友人に「かおりさん、日本のスーパーでは積んであるものを勝手にとって食べてはいけないんだから気をつけた方がいいわよ」などと注意されたが、アメリカのスーパーは「試食し放題」なのである。山積みになっているぶどうやチェリーなどを1つ2つつまんで食べてみる、ということは当たり前のことだった。消費者の意識としても、味のわからないものを買うなんて信じられない、という感じでもあった。プラムなど今思えば1個がわりと大きいものでも試食OKだった。そこで、入ってすぐにチェリーを2個、ぶどうを3粒ほど環に持たせて、彼女がそれを味わっている間に、買い物を済ませてしまう、ということも良くあったのだ。(もちろん、試食以外にもちゃんと果物は買うのだが)そうやって、買い物の最中に子供に試食をさせるということは、私の友だちはみんなやっていることで、それを称して仲間内では「子供にわいろを贈る」と言っていた。

今、こうやって振り返ってみると、子供に楽しいスーパーというのは実は消費者本位の店でもあるのだな、ということに気付く。自分の目で見て自分の必要な分量だけ買える、ということは消費者にとっては有り難いことである。当たりもはずれも自分の責任だし、必要なだけ買えばいいから、使わないままダメにしてしまった、ということもない。

でも、最大の理由はアメリカの方が圧倒的に食料品が安いから、なんだけどね。

 

→ 第37回:面罵された時の対処法