■ダンス・ウィズ・キッズ~親として育つために私が考えたこと

井上 香
(いのうえ・かおり)


神戸生まれ。大阪のベッドタウン育ち。シンガポール、ニューヨーク、サンフランシスコ郊外シリコンバレーと流れて、湘南の地にやっと落ち着く。人間2女、犬1雄の母。モットーは「充実した楽しい人生をのうのうと生きよう」!


第28回:ふりかかる危険と自らの責任

更新日2002/01/22


最近、とくにあの9月11日以降、自分と家族の安全について考えている。

もう10年近くも前に、カンボジアの民主化のための選挙が行われる、というときにシンガポールの研究所で世界の様々な地域から来ていた研究者の仲間と議論したことがあった。テーマは「言論と暴力」についてだったのだが、ドイツ人の理想主義者の女性が「どんなことがあっても、私は暴力には反対する。自分の身が危険にさらされても、暴力には絶対うったえない」と言った。そこにいた私以外の日本人は深くうなづいていた。

私は素直にはうなづけなかったのだ。それをめざとく見つけたカナダ人の男性が「カオリはどう思う?」と聞いた。「私は多分、誰かが私や私の家族を殺そうとしたら、武器を使ってでも自分と家族の身を護ろうとする」と言った。日本人のとくに男性の研究者にはその後「過激派」とからかわれた。でも、その場にいたほかの外国人研究者は「しかり」とばかりにうなづいていたのが、興味深かった。自分の身を護ろうとすることは、「過激派」なのだろうか?

先日テレビを何気なくつけたら、PTSD(外傷後ストレス障害)患者の女性が体験を語っていた。彼女は3歳になったばかりの子供を事故でなくし、以来その悲劇から立ち直れないでいる、ということだった。同じ小さな子供をもつ母親として彼女の気持ちは痛いほどわかった。でも、その「事故」のあらましを聞くと素直に同情できない自分がいた。その「事故」とは彼女の夫が子供を自転車に乗せて買い物にでて、店で買い物をする間、その店の前に子供を乗せたまま自転車を停めて買い物をしていたところ、子供が体を動かした拍子に自転車が倒れ、後ろからきた車に轢かれ子供は死亡した、と言うのである。

この事件で、その悲劇の責めを負うべきは後ろからきた車の運転者だけであろうか?私は否だと思う。明らかに、停めた自転車に子供を乗せたままにしたその父親の責任も問われて然るべきだと思う。こう思う私は「過激派」だろうか?

新聞で目にする子供を巻き込んだ悲劇の内容をよく読むと、それは自然発生的な純粋な悲劇だろうか、と考え込んでしまうことが多い。今、自分が行うその行為がもたらすかも知れない結果の予測を怠ったために、あるいはできなかったために起こった人為的な事故が多いように思うからだ。

最近、耳にすることが多くなってきた幼児虐待だが、これもあるテレビ番組で幼児虐待の罪で逮捕された妻をもつ夫がインタビューされていた時にこう言ったのだ。「もっと、行政がしっかりとしてくれていれば、こんなことは起こらなかった」。そうだろうか?それでは、父親であるその夫にできることはなかったのだろうか?彼は本当にその妻の自分の子供に対する虐待を止めるためにできうる限りの努力をしたのだろうか?そのインタビューからはそのような印象は受けなかった。

今、この日本に住んでいる私たちは、「危険」のにおいを嗅ぎ分ける本能を失いつつあるのではないだろうか。自分と自分の家族の身を、自分の手で護るという個人の責任を放棄してはいないだろうか。

どんなに法が整備されようとも、どんなに行政が綿密な活動を志したとしても、自分と自分の家族の身を守れるのは結局自分しかいないのだ。「危険」のにおいに敏感でいよう。自分の子供は自分で護ろう。それが、大人として、親としての責任ではないだろうか。

 

→ 第29回:子供はいつ大人になるのか? ~その1