■ダンス・ウィズ・キッズ~親として育つために私が考えたこと

井上 香
(いのうえ・かおり)


神戸生まれ。大阪のベッドタウン育ち。シンガポール、ニューヨーク、サンフランシスコ郊外シリコンバレーと流れて、湘南の地にやっと落ち着く。人間2女、犬1雄の母。モットーは「充実した楽しい人生をのうのうと生きよう」!


第30回:子供はいつ大人になるのか? ~その2

更新日2002/02/19 


まず言えるのは、「子供は自然に勝手に大人になれるわけではない」ということだ。親が子供を大人に育てなければならない。そのためにはまず、親が大人であることが必要不可欠であるわけだが、ここでは親はすでに大人であることを前提として話を進めたい。

まず、「大人である」とはどういうことだろうか。それは、ひとことで言えば「自分を客観的に見られる」ことだと思う。自分自身に、つまり、自分の言動/行為に責任を持つことができる、ということだ。世間を見回してみてもわかるように、年齢を重ねれば大人になれるわけではない。60歳でもどうしようもなく「子供」な人間もいるし、例え15歳でも、その人から30を過ぎた私が学ぶべきことのある「大人」もいる。

「自分の行為に責任を持つ」とは、「言うは易し行うは難し」の典型であろう。例えば子供の叱り方ひとつをとって見ても、ただ自分の感情を害されたからという理由でその怒りを子供にぶつける、というのは子供のすることだ。大人としては、自分の言動が子供に与える影響とその効果を考えて、言葉と行動を選ぶべきだ。最近問題になっている児童虐待も、そこに根があるといえるだろう。

では、どうしたら子供に自分の言動に責任を持たせられるのだろう。

それは、日々の細々としたことの積み重ねであり、相当の忍耐が必要とされることでもある。すなわち「しつけ」と呼ばれるものだ。

私が実践しているのは、子供に「自分の言ったことはちゃんと守る」ことを強いること。それは本当に些細なことだ。例えば朝食時。牛乳をコップに注ぐ際、たいてい私はコップの半分まで注いでやるのだが、子供は「いっぱいまで入れて」と言う。「本当に飲めるの?」と念を押した上で注いでやる。案の定子供は「もういい」とコップ半分残そうとする。そこで、私はこう言う。「自分が飲めると言ったのだから、飲みなさい」。そうすると、最近上の娘は「飲んだらまた入れてくれる?」と聞くようになった。

買い物の時。スーパーでパンだけ買いたい時、私は子供に車の中で待つように言う。すると子供は「一緒に行きたい!!」と主張する。そこで、こう尋ねる。「一緒に行っても、あれ買って、これ買ってって言わない?」もちろん子供は「言わない」と答える。一緒にスーパーに入るとやっぱり、「ママ~、これ買って!」とハム太郎のふりかけを指差す。「あれ買って、これ買ってって言わない約束でしょ」。そうすると上の娘は、「ああ、そう言っちゃったんだ」と諦める。上の娘が諦めると、下の子も「言っても無駄か」とばかりに諦めるのだ。

あるいは、姉妹喧嘩の時。上の娘は、妹に本当にひどいことを言ったり、したりすることがある。そこで、こう聞いてみる。「自分がそう言うことを言われて嬉しいの?」 すると、娘は「いや」と言う。「自分にされて嫌なことを他の人に言ったり、したりしてはいけない」と諭すと、時に娘は癇癪を起こすほど苛立つが、そこでめげてはいけない、と自分を励ますことにしている。こういった日常の些細なことを積み重ねることで、娘は「自分の言動に責任を持つ」ことを学んでくれると信じているからだ。

これは、アメリカ人の母親から学んだ鉄則だ。アメリカ人の母親は「言葉」に対してとても敏感だった。相手を罵る言葉のバリエーションは実に豊富な英語だが、映画などで見るよりも実際にはアメリカ人の母親は子供の言葉に対して強力な「検閲」を課している。使ってはいけない言葉をハッキリと決めていて、それを子供が使った時は容赦なく罰する。

その「罰」で一番よく使われていたのは「子供が一番楽しみにしていることを取り上げる」ことだった。子供が小さい場合には「大好きなセサミストリートを観られない」、大きい場合には「コンピューターゲームを取り上げる」が多かったように思う。また、「おやつはなし」も母親がよく使う手だ。そして肝心なことは、「例外はない」ことをしっかりと子供に教えること。これは、母親にとっても忍耐が強いられることだ。しかし子供にも忍耐を強いているわけだから、そう思って諦めるしかない。

そして「子供に責任を持たせる」方法で、日本ではお目にかかれないものに、「ベビーシッター」がある。この話は次回に。

 

→ 第31回:子供はいつ大人になるのか? ~その3