大作『ブレダ包囲戦』を制作した1628年、カロはその対極にあるような小品集、扉絵を入れて27点からなる『修道院の光』(LUX CLAVSTRI 60㎜ ×82㎜)という作品を制作しています。おそらく修道院からの依頼を受けて制作したと思われますけれども、ここではカロが得意とする饒舌な表現は抑えられ、極めて寓意性の高い、必要な要素だけを描いたシンプルな画面構成で、かなり丁寧に彫られてもいて、表現もカロのほかの作品にはないスタイルで独特の味わいがあります。
たとえば、版画集の中の扉絵の次にあるのはこのような作品です。

見張る眼
柵で囲われた中に羊か何かの家畜が飼われていて、柵の外に、おそらくは家畜が逃げ出さないよう見張るためでしょう、一匹の犬が座っています。奇妙なのは、その犬のそばに一本の杖のようなものがあり、その柄の部分に、眼が描かれていて、この作品には『見張る眼』というタイトルが付けられています。
もしかしたらこの杖は番犬の御主人のものかもしれませんが、状況や意味を説明をする文字が全く書き込まれていませんから、それに関してはこの画を見て想像して下さいということでしょう。作品集のタイトルはラテン語です。当時はラテン語はヨーロッパの知識人の共通語のようなものでしたから、これは修道僧のような教養のある人たちが、思考力や表現力を高めるために用いた、あるいは信者に見せて説教のようなことを行うための、日本の禅寺での禅問答集のようなものなのかもしれません。
人間はコミュニケーションの手段として言葉や文字や図象や音楽のようなツールを発明しましたけれども、面白いのは、何かを表すに際して、それぞれのツールによって表しやすいことと表し難いことや、それによって活性化される想像力の働きや領域《フィールド》が異なることです。
言葉や文字はどちらかといえば、具体的な意味や要求や物語的な脈略や情緒や感覚のニュアンスやその強弱を表すことに適していて、たとえば「私はお腹が空いているので何か食べるものをください、できれば焼いたお肉をたくさんください」と言われれば、その内容はそのまま相手に伝わります。けれども、そのことを一枚の絵で表すのはかなり難易度が高くなります。言葉の構造の中にある主語や述語や形容詞や目的語といった決まり事のようなものが絵にはないからです。
逆に絵のなかに、一本の道と川と、そこにかかっている橋や、遠くに見える教会や、沈みかけている太陽や、道のそばにいる動物や道を歩く人の表情や空に浮かんでいる雲などが、明るい、あるいは暗い雰囲気で描かれていれば、それを見れば人はすぐに、その景色や状況や何らかの印象を受け取ることができますけれども、それと同じような状況や感覚を言葉で表すには、かなりの言語表現力が必要になります。
また音楽は時空間や情緒やエモーションを共有することに長けていますけれども、必ずしも意味や具体的な情景を表すには適していません。もちろん音楽を聴いて人は何らかの情景を想起したりしますけれども、そうして思い浮かべることは聴く人の過去や経験や想像力の傾向や感受性などによって人によって違っていて様々です。
人はこうした表現伝達手《ツール》段、あるいは幻想共有手段《メディア》を駆使して、自らの想いを形にして人に伝えたり残したり、他者の想いを受け取ったり、それを共有し協働して想いを社会化したりします。
そのように考えるとき、カロのこの小品集には、独特の趣がありますし、このようなメディアの違いを熟知するカロの知性《インテリジェンス》が感じられます。おそらくこの作品は、修道士との言葉による対話を通して、その想いを汲んでカロがそれを謎のような、意味を過度に限定せずに想像力や解釈がどこまでも広がるような画にしたと思われるからです。
では、この版画集の作品をいくつか見てみましよう。次の画には『燭台』というタイトルが付けられています。

燭台
この画には太陽の光が溢れる屋外の自然の光と、燭台に灯された蝋燭の光の、二種類の光が描かれています。外部の光が家の中にも差し込んできていて、壁によってその光が遮られている部分は影になっています。燭台のある場所の壁には窓があり、ステンドグラスのようなものが嵌められているようですが、そこからの光はそれほど明るくはないようです。
画自体はシンプルなのに、何を意味するのかを言葉で説明するのはなかなか難しそうです、というより、無限の解釈や物語の可能性、あるいはそのきっかけを提供するところにこそ、この画の役割があるように思われます。
たとえば修道僧が、外の光、家の中に差し込んでいる光、ステンドグラスを通した光、蝋燭の光、人にとって大切なのはどの光でしょう? というような問いを投げかけた場合、相手によって、それぞれ異なる答えが返ってくるでしょう。そしてその問いにはおそらく正解のようなものはなく、不思議な画を前にして語り合うことにこそ意味があるのでしょう。そう考えるときカロが、その微妙な役割を十二分に理解して画像化していることがわかります。これまで説明的な画や、動作や解釈を誇張したりするような画を多く描いてきたカロにしては、不思議なくらいの抑制が働いています。これはカロがこの作品集に求められていることを正確に理解する知性《インテリジェンス》と、そのコンセプトに留意しながら、それを画として描き表す確かな表現力の持ち主だったということを表しています。

チューリップと太陽
『チューリップと太陽』という画では、太陽の光を受けて元気に咲いているチューリップと、岩で光を遮られて萎れているチューリップが描かれています。一見、比較的わかりやすい画のように見えます。ただ右上に夜空に輝くたくさんの星が描かれていて、もちろんそれも光です。また左上に太陽が描かれていますけれども、これだけでは太陽が昇ろうとしているのか、それとも沈むところなのかはわかりません。かりにこれが朝日だとして、太陽は東から西へと空を巡りますから、午後になれば、元気な花と萎れた花との関係はおそらく逆になるでしょう。
そんなふうに考えていくと、この絵もだんだん不思議な画に思えてきますし、同時に人によっては、この巨岩の存在そのものが何らかの意味を持つと感じられるようになってくるかもしれません。

鳥とカタツムリ
この画は『鳥とカタツムリ』と題されています。もしかしたら空を素早く飛べる鳥が、のろまなカタツムリをからかっているのかもしれませんし、それに対してカタツムリが、でも僕は自分の家を背負っているから君みたいに遠くまで帰らなくていいし、眠くなればいつだって家で眠ることができるんだ、とか言い返しているのかもしれません。
そして画には大地に根を下ろした草と人間が住む家がさりげなく描かれています。自分の居場所ということでいえば、この関係も鳥とカタツムリと似ていなくもありません。もちろん鳥とカタツムリが、ここに記したのとは全く異なる会話をしていることだって考えられますし、そうではないシチュエーションも色々考えられます。つまりこの版画集のカロの画は、寡黙なようでありながら極めて饒舌でもあって、それがこの版画集のコンセプトとそれを受けたカロの画の面白さです。

籠の中を見る猫
これは『籠の中を見る猫』という画です。籠の中にはどうやら鳥がいるようです。空を飛べるのに籠に入れられている鳥と、籠の中にいるので獲ろうと思っても獲れない鳥を見ている猫。どちらが囚われているのか、あるいはどちらの気持ちが穏やかなのかなど、この画からもいろんな会話が成り立ちます。どうやらこの作品集は宗教的な教義を教えるためというより、思考力を豊かに働かせるためのツールのようなものなのかもしれません。
しかし描かれている内容が奇妙なわりには、画そのものには一種の安定感があり、いろんな思考の中に入り込まなければ心がざわついたりしないのも、このシリーズの特徴の一つです。それはおそらくカロの構図の確かさと関係しているでしょう。ほかにもいろいろありますけれども、もう一点だけ紹介します。

水のなかの鹿
『水のなかの鹿』と題された作品です。鹿は泳いでいるのかもしれませんけれども、何となく沼の底の泥に足を取られて動けなくなっているようにも見えます。またこの画では明らかにそうとは描かれてはいませんけれども、鹿の角と岩に生えている木の枝とに何となく類似性が感じられるようになっていて、それに気づいた瞬間、画に自ずと意味性が漂い始めます。つまり、動けるけれども動けなくなってしまっている鹿と、動けないけれどもしっかりとした岩の上に根を下ろして生えている木という対比の妙です。
ちなみに、そう思ってみればそう見えなくもない類似性の表現においては、画は言葉よりもはるかに優れています。曖昧だけれども、でも何となくそう見えてしまう、このような表現を言葉で行うのは至難の技です。
絵による表現の面白さは、画面に、そこに描かれているものが何であるかがわかる最低限のものが描かれていれば画として成立することです。それは裏を返せば、そこに描かれているものには何らかの意味、あるいは必要性があると見る人に感じさせる働きが画にはあるということです。ですから私たちの目は、この絵を見たとき、わざわざ描かれている木の枝と鹿の角との類似性を、つい発見してしまうのです。
たとえ依頼された仕事であっても、そこで求められていることが何かを真摯に自らに問うことによって、新たな可能性や表現領域《フィールド》をその仕事を通して自らが発見していくこと、優れた表現者とはそのような仕組みを自らの内に宿しているものです。この仕事はカロにとって、言葉と絵などの表現メディアやその特性の違い、あるいは詳細に描くことによって可能になることと、逆に描きすぎないことによって表し得ることなどついて考える良い機会《チャンス》になったように思われます。
-…つづく