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■ジャック・カロを知っていますか? ~バロックの時代に銅版画のあらゆる可能性を展開した天才版画家とその作品を巡る随想


更新日2022/09/01 


 

第30回:聖アントニウスの誘惑 【最終回】



ジャック・カロは、ペスト、飢饉、戦争という、人間社会が遭遇する最悪の災いがもたらす悲惨が重なり合ったロレーヌで晩年を過ごし、1635年に亡くなりました。まだ43歳でした。原因は胃癌だったともいわれていますけれども、様々な精神的な苦痛が、カロの体を内部から蝕んだのかもしれません。

しかしその前年、カロは、死のおよそ20年前、1617年にフィレンツェで制作した画題《テーマ》と同じテーマの大作を創り遺しました。12回で紹介した『聖アントニウスの誘惑』(358㎜×464㎜)です。モチーフや表現された形象の奇怪さに比して、画面全体がやや明るめで、どことなく牧歌的でコミカルな要素が多かった前作に比べて、この作品は全体に暗く、聖アントニウスに対する悪魔や怪物たちの攻撃もより激しさを増しています。

前作ではほとんどどこにいるのかわからないほどに小さく描かれていた聖人の姿も、ここではしっかりと描かれ、襲いかかってくる怪物たちに抗い、イエス・キリストの象徴である十字架をかざして必死でそれらを退けようとしています。


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この頃、この画題《テーマ》はヨーロッパでは人気が高く、いろんな画家が作品を残していますけれども、それは誘惑に屈することが罪だというキリスト教的な価値観と、人間が抑えがたいものとして持つ様々な欲望との間で人々が感じる葛藤や悩みや闘いが、当時のヨーロッパの人々にとって重要な心的課題だったことが大きく影響していると思われます。

キリスト教はヨーロッパの精神世界には深く浸透していて、その影響は絶大で人々の価値観の根底となっています。キリスト教、とりわけ旧約聖書の価値観をかたちつくっているのは罪と罰という概念で、そこでは神の言葉を守ることが善であり、それを破るのが悪であり、その悪に対して神が罰を与えるというのが旧約聖書の一貫した構造であり、繰り返し語られる神の教えです。

その最初の罪は、神によって創られた最初の人間であるアダムとエバが、神から決してとってはならないと言い聞かされていた知恵の木の実を、神の言葉に背いて食べたという罪です。これは『原罪』と呼ばれ、人間が末代まで背負い続ける人間が犯した最大の罪であるとされて、その罰として人間は、何不自由なく裸で暮らしていけはずだった楽園を追い出され、自らの手で食べ物を得るべくさまよい、あるいは大地を耕して生きる存在となります。

旧約聖書は人間がして良い事してはならない事の記述に満ちています。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のいわゆるモーセの五書には、モーセの十戒をはじめ、ありとあらゆる戒めや罪が事細かに書かれ、神を崇めるための祭壇のつくりかたや捧げ物のありようや服装まで神が言い渡したこととして書き記されています。

そういう意味ではモーセの五書は、生活全般にわたる法律のようなものですけれども、それは同時に、そうして事細かに決めなければ、神によってこの世に生まれ出たその瞬間から原罪を犯すような存在なのだから、そうして人間の欲望などを厳しく律しなければ何をするかわからないという、一種の性悪説的な観点に立っているとも言えます。

しかし万能の神が創り出した人間が、厳しく律しなければ悪いことをするというのはどういうことなのでしょう。人間は神の失敗作なのか? それともわざわざそういう存在として創ったのか? だとしたらそれはなぜ? という疑問が湧いてきますし、十戒の中で「殺してはいけない」といっている神が、もともとは他民族の土地であったカナンに攻め入る時に、なぜ異教徒を「滅ぼしつくせ」と命じるのかなど、旧約聖書は謎に満ちていますけれども、それはともかく、その中に貫かれているのは罪と罰という概念《コンセプト》です。

こうした無数の複雑な戒律によってユダヤ社会が硬直化し、またその解釈をめぐって律法学者や祭祀が権力を振りかざすようになったためか、あるいはその息苦しさに耐えられなくなったためかはわかりませんが、新約聖書では、こうした厳しさはかなり緩められます。

旧約聖書を受け継ぎつつも、神の子という概念を持ち、人間の原罪を含めた罪を一身に背負ってそれを浄化すべく自らの命を捧げたイエス・キリストという人間の登場と人間愛、さらには人間的な自由意志やそれに基づく選択という概念などが導入されたことによって、そしてそれを弟子たちが語り継ぐという形式を得た新約聖書によって、キリスト教という新たな宗教が生まれ、世界的な普遍性を獲得していきました。

しかしそれでも、罪深き存在としての人間という概念《コンセプト》に関しては踏襲していて、それはイエスを裏切ったユダや、イエスが十字架に架けられて息絶える時には、その場から逃げてしまっていた弟子たち、そして同じユダヤ人でありながらイエスを死に追いやったユダヤ人社会に顕著に表れています。そして誘惑や欲望は、禁じられ、罪とされることが多い世界ほど強いのかもしれません。

ともあれ、それを罪と言おうと性《さが》と言おうと、欲しなければ得ることができず、欲し過ぎれば他者の存在を損ないかねない社会の中で、人間は様々な欲望を大なり小なり抱えて生きています。食欲であれ物欲であれ性欲であれ所有欲であれ権力欲であれ何であれ、人は多くの欲望を内に秘め、時にはそれを制御し、時にはそれを顕にしながら生きています。

そのような、人間だからこそ感じる悩みや迷いから脱する、あるいは鎮める、もしくはそれらを律する手助けをするものとして、大雑把に言えば宗教というものの人にとっての存在理由があります。逆に言えば、人間が持つ欲望は、そのような大きな価値や意味に心を委ねなければ平安が保てないほどに強いとも言えます。聖人であってもそれは同じです、というより、意志の強さはある意味では欲望の強さと裏腹であってみれば、聖人を目指すほどの意志力の持ち主の欲望は、それを日常的に発散しながら暮らす人々よりも、もしかしたら強いかもしれません。そこに『聖アントニウスの誘惑』の主題《テーマ》があります。

大きな『聖アントニウスの誘惑』の版画の細部をもう少し見てみましょう。


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ありとあらゆる怪物たちがあらゆる角度から聖アントニウスを攻撃しています。あるいは、十字架をかざして必死に抵抗する聖アントニウスを、修行の場である洞窟から引っ張り出して悪事の仲間入りをさせようとしているかのようです。

随分スカトロジー的な表現も多いですけれども、これはルネサンス後期の作家フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュア物語』などに端を発する時代的な嗜好の表れで、こうしたことが面白がられたということでしょう。

考えてみれば、人間は呼吸し食べて寝なければ生きていけませんし、食べれば排泄しなくてはいけません。また愛し合わなければ子孫を残すこともできません。こうしたことは動物としての人間に備わった摂理です。

版画の怪物たちは、小怪物や武器や炎や、いろんなものをさかんに吐き出しています。それが何を意味するのかは、絵を見た皆さんがそれぞれ想像力を働かせて楽しんでいただくとして、ただ、魔界の怪物たちだって、動物たちと同じように、息を吸ったり吐いたりするのでしょうし、そのついでに、自分の分身のような怪物や子分や、人間を殺める弓矢や槍や、全てを焼き尽くす炎を吐いたりもするのでしょう。

人間もそうです。善を求めながらも様々な武器を作り、侵略戦争を起こして徒党を組んで殺しあい、平穏に暮らす人々の家や街を焼き、あらゆるものをその悪行に巻き込み、29回でカロが描いたような悲惨をもたらします。そしてそれらは悪魔ではなくすべては人間の仕業です。

それに比べれば、想像力豊かな人間の幻想の産物とも言えるこれらの怪物たちはまだ可愛いものです。何しろそれらは聖アントニウスの欲望や邪念が姿を変えたものに過ぎないからです。誘惑とは欲望の裏返しです。しかもカロのこの版画をよく見れば、20年前の版画には描かれていなかったことですけれども、恐ろしい顔をした大魔王の左の足は、なぜか鎖に繋がれています。どんなに脅しても、天に繋がれた鎖のせいで、聖アントニウスを呑み込んだり噛み砕いたりは所詮できないのかもしれません。何しろそれは過剰なまでの想像力を持つ人間が創り出したイメージに過ぎないのですから……

動物の一種である人間には、他の動物にはない実に人間的な特徴があります。それは現実にはないものを思い描いたり、自然界にはないものを創り出したりする想像力や創造力や知力や論理力や構想力という力を駆使する能力です。人間はそれによって武器などもつくりましたけれども、その力を用いて言葉や文字を創り、絵を創り音楽を創り数字を創り、人々が共に生きていくための街や社会という仕組みを創り出しもしました。

それは人間にとって、地球という自然の摂理を持った現実、もしくは人や動植物たちが生きていくための自然的資本ではない、もう一つの人間が創り出した文化的資本です。私たちは地球という唯一無二の星の上で、営々と創くられ受け継がれてきた文化的な積み重ねとその広がりの中で生きています。それと共に生きることで人の心を育んできました。無数の物語や歌や図象を創り伝えてきました。それは動物でもある人間に備わったもう一つの本能です。

人は親も時代も育つ場所も選べないで生まれてきます、けれど同時に、地球を包む空気のように、緩やかにつながりあって地球をめぐる遠いところから吹いてくる文化という風の中で生きています。そこでは風の便りを介して遠いところで息づき始めている新たな美の香りに触れることができます。遠い昔の物語や、それに基づく演劇を見て、普段は体験できない何かを体感することができます。異国の響きを持つ音楽に心を躍らせることもできます。絵や音楽や詩や物語がなかったら人の暮らしはどんなに味気ないでしょう。というより、それはもう人間の営みとは言えません。多様な人が助け合って生きる仕組みとして人間が発明し構築した社会も街も、成立し得ないでしょう。

動かしがたいものに満ちた現実に比べ、文化的な世界、あるいは想像的世界《イメージ》には無限の広がりがあります。そこにこそ美を生み出すアーティストの働きと社会的場所があります。そして想像的世界は常に現実世界と密接にリンクしています。演劇はしばしば、普段は気がつかないような、人間社会や人間の本質やそこに潜む矛盾や葛藤に気付かせてくれます。歌い継がれてきた歌は、自分たちの個有の文化や風土が育んできた感性の故郷とつながっています。風景画であれ人物画であれ幻想画であれ、描き遺された絵画には、作家とその人を取り巻く現実や関係が織りなすそのときどきの、真実が宿っています、書き遺された言葉には、かつてどこかにそのようなことを思い考えた人がいたことの証です。そしてそれらは時と場所を超えて、それらと触れ合う人の心に届きます。人間の文化的表現の素晴らしさと豊かさとがそこにあります。

カロがフィレンツェの祝祭の様子を、もしも版画に描き遺さなかったら、私たちは400年以上も前のフィレンツェの華やかさをうかがい知る術がありません。カロ風に誇張して描かれたコメディア・デラルテの役者の画があればこそ私たちはその躍動感を感じ取ることができます。

カロの『戦争の悲惨』の存在によって、私たちは当時の戦争の悲惨さに直面し、あるいは人間が犯す最悪の犯罪である戦争というものが今もなお存在することを想起して心を痛めます。異なる時空を生きたゴヤが、意図を受け継いで同じ呼称を持つ版画集を描き遺しました。そしてその精神に写真家たちがドキュメンタリーという新たな形を与えました。受け継がれ広がり続けるものとしての文化の良き伝統がそこにはあります。

考えてみればカロは、版画というメディアによってありとあらゆるものを視覚化しました。しかもマスプリントメディアだからこそできた画家としての経済的自立をさえ獲得しました。それは、200年後にその可能性に着目したゴヤでさえ成し得なかったことでした。その後、画家が好きな画題を自由に描いて、それで生きていけることを実証するにはギュスターヴ・ドレの登場を待たなければなりませんでした。

そのような意味ではカロは、視覚表現のあらゆる可能性を1,500点近い作品で追求してみせた天才であり、今や表現上の大河であり海でもあるヴィジュアル表現の大きな流れの、その源流のような存在です。

それにしても『戦争の悲惨』という歴史的な作品によって悲惨極まりない現実を描き遺したのち、若くしてこの世を去ることになるカロは、その対極にある『聖アントニウスの誘惑』を、どんな気持ちで描いたのでしょう。

それが幸せだったフィレンツェ時代のカロが、自らの力量を示すために描いた画題《テーマ》だったことに、私は強い感慨を覚えます。富を文化や芸術につぎ込み、人類史的な文化ムーヴメントであるルネサンスの華を咲かせたメディチ家の最後の大公、コジモ2世の治世のもとで、超一流の芸術家たちに囲まれて思う存分に活躍したカロ。そんなフィレンツェ時代がどんなに恋しかったでしょう。

かたや、自らの故郷であるとはいえ、その頃のロレーヌは、大国フランスを手に入れるという、身の程知らずの虚妄を抱く愚かな大公が、勝てるはずもない戦争を始めて民を悲惨な状況に陥れ、ペストが流行っていたにも関わらず、大量の傭兵を雇っての戦闘でフランス軍に蹴散らされた兵隊を城内に逃げ込ませてペストを深刻化させ、さらには飢饉のために備えるという知恵などあるはずもなく、保身と私的な野望に明け暮れて国土を荒らし、結果として、ロレーヌ公国の民の三分の一を死なせるに至ります。

文化と同じように、社会もまた人間が創り運営し後世へと手渡すものです。その時、どんな社会を後世に手渡すかは、そのつどそのつどの社会を生きる人々の働きによります。戦争と平和、喜びと悲しみ、社会の中で生きる一人ひとりにとって、何が好ましいかは明らかです。しかし、カロの時代では、多くの共同体を君主とその取り巻きが治めていたために、社会のありようはその君主のありように左右されざるを得ませんでした。そして治世者が社会のありようを左右するということにおいては、それは現在でも同じです。

ただ、人間の長い歴史の中で、社会のありようは紆余曲折を繰り返しながら少しづつ変化してきましたし、これからも変化し続けます。その時、過去にどのような社会があったか、それはどのようにして成立し運営されたか、あるいはそれはどこで崩壊したか、どうして戦争が起こったか、といったこともまた文化とその積み重ねがなければわかりようがありません。

そして豊かな社会とは多様で豊かな文化を擁し育む社会にほかなりません。つまり、より多様で豊かな文化を求め創る行為こそが、社会をより豊かなものへと変化させる力となります。

そのような意味においても、またそのようなことに自ずと思いが及ぶということにおいても、カロと彼が為した仕事は貴重であり、今日的な視覚表現の源流ともいうべきカロを知ることは、人間と社会と表現との関係やその多様なありようとその本質を知ることにもつながり得ます。

そしてそれこそが、秀でた表現者であるカロとその作品がもたらす時空を超えた働きです。

 

《完》


 

 

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谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
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本や歌や建築、さらには自治体や企業のシンボリックプロジェクトなどの、広い意味での空間創造を仕事とする表現哲学詩人、ヴィジョンアーキテクト。
主な著作に『鏡の向こうのつづれ織り』『鳥たちの夜』『空間構想事始』『天才たちのスペイン』、主な建築作品に『東京銀座資生堂ビル』『ラゾーナ川崎プラザ』『レストランikra』などがある。
なお音楽作品として、シンガーソングライター音羽信の作品として、アルバム『わすれがたみ』『OTOWA SHIN 2』などがある。

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バックナンバー
第1回:ジャック・カロを知っていますか?
第2回:カロの最初の版画
第3回:ローマでのカロ
第4回:フィレンツェでの幸運な出会い
第5回:最初の公的な仕事
第6回:地獄絵図
第7回:愛のキューピットがトスカーナにやってくる
第8回:祝祭都市フィレンツェ
第9回:ジャック・カロの発見
第10回:独自の路を歩み始めたカロ
第11回:劇的空間
第12回:聖アントニウスの誘惑
第13回:版画集『きまぐれ』
第14回:トスカーナの風景
第15回:三人の役者
第16回:聖地巡礼報告書
第17回:トスカーナの暮らし
第18回:ボヘミアン
第19回:スフェサニアの舞踏
第20回:異形の人々
第21回:男爵大将
第22回:ロレーヌ公国での仕事
第23回:ロレーヌの貴族たち
第24回:三点の大判版画
第25回:宮廷槍試合
第26回:ブレダ包囲戦
第27回:修道院の光
第28回:パリの景色
第29回:戦争の悲惨

■更新予定日:隔週木曜日