父親の急死を受けて、わずか19歳で第4代目のトスカーナ大公になったコジモ2世(1590~1621)は、まずは前大公フェルディナンド1世を讃える催事を行い、そのために多くの絵をテンペスタやポチェッティたちに描かせ、またカロに命じてそれを版画化して広く後世に残す作業を行なったのち、大公として自分がやりたい事をし始めます。
ただコジモ2世は、トスカーナを再興した父のような行政手腕や経済活性化のための戦略や展望や意欲は持ち合わせておらず、メディチ家の伝統である経済戦略と文化支援の両輪のうちの、片方の経済に関してはほとんど興味がなかったようで、もっぱら文化にお金を使うことに専念したようです。
ちなみにコジモ2世は、「それでも地球は回っている」と言ったという伝説で有名なガリレオ・ガリレイ(1564~1642)を幼い頃から家庭教師としてつけてもらっていて、1610年にはガリレイは、コジモ2世から「トスカーナ大公付きの数学者」という地位を与えられています。ガリレイは天動説を唱えたために異端審問所から有罪とされたりなど苦しい晩年を送りましたが、コジモ2世の治世の時には極めて才能ある人物として重用されたばかりか、とても聡明で魅力的な天才として学生たちの人気も高かったようです。ちなみにガリレイは1610年に、今でもフィレンツェの博物館に残されている望遠鏡で自らが発見した木星の惑星を、メディチ家の星、と名付けたりしています。
ともあれコジモ2世は、お祭りを含めた文化的なことが大好き、というか、それ以外のことにはあまり関心がなかったようで、球技大会や音楽会や演劇など、次から次へと市民とアーティストを喜ばせるイベントを開催しています。
次に紹介する版画は1616年に行われた聖ヤコボ祭のための「愛のキューピットがトスカーナにやってくる」と題された、フィレンツェの街を今も流れるアルノ川での、ジウリオ・パリジのデザインと総合演出による大イベントのメインの山車を描いたものです。
やたらとデコラティヴな船で、船倉にいる人が櫂を漕ぐ一種のガレー船ですけれども、車輪がついているところを見ると、もしかしたら街を練り歩いて、それからアルノ川に入ったのかもしれません。船のいたるところに花火が仕掛けられているようで、船首(あるいは船尾)の芋虫人間の口や背中や、その下の奇妙な怪物の口からなど、とにかく船のいたるところから盛んに火花が飛び散っているようです。
船上には兵士の格好をして盾を持っている人もいれば、楽器を持っている人や歌を歌っている人もいます。音楽はペリという人が担当したようですが、さぞかし騒々しい山車の進軍だったでしょう。船に設えられたステージには裸の愛のキュピットが乗っていて、全体にいかにもバロックです、というより、こんなことが行われていたから、この時代の絵画や建築や音楽が、バロック(歪んだ真珠)と呼ばれるようになったのでしょう。
言うまでもないことかもしれませんが、ある時代のアートのスタイルというものは、いろんな人がいろんなトライをして、その時代の人々の心の琴線に触れたもの、新鮮でカッコいいなと人々や周りのアーティストたちが感じるようなものが次第に主流を占めるようになり、それが一つのムーヴメントような文化的な昂まりとなった場合に、それを後の人が、その最も顕著な特徴や傾向を捉えて名前をつけるのであって、同時代の当事者たちは、最初からその傾向を目指したわけではありません。

また芸術にもさまざまな分野があり、音楽や絵画や彫刻や建築であったり、演劇であったり、あるいはそれらをミックスしたものであったりしますけれども、なかには見世物のようなものや、奇をてらったりするようなものもあって、むしろその多様性や文化的厚みの中から、時代を牽引するような表現が生まれるものです。
ですからバロックとは何かということは一概には言えませんけれども、あえて言えば、黄金比や正確な遠近法などによる調和やリアリティや完璧性を目指したルネサンスに比べれば、バロックの時代には、そのようないかにも美しい調和的な枠をあえてはみ出すような何かを、つまり見る人を驚かせたり、強引に観客を巻き込む演劇のような、非日常的なもう一つのリアリティを追求したものが時代の感覚と呼応してもてはやされたように思います。
絵画でも演劇でも、もう一つの現実、つまり観るものとの対話を促す表現が登場しましたし、建築では美しく軽やかなリズム感のようなものを重視したルネサンス建築とは異なる、装飾や目を引く意匠などを展開したものが好まれました。
そしてそのような観点で見れば、17世紀の初めに、奇抜なデザインはもとより、衣装から小道具から音楽や仕掛けまでも動員して、大公や市民に向けて、非日常的な時空間を演出してみせたジウリオ・パリジは、まさしくバロックのパイオニアであり、そのような文化ムーヴメントを、それまでにはなかった斬新さとともに牽引した当時のアバンギャルド(前衛)だったように思われます。時代の美意識というものはいつでもそのように、それまで誰も見たことがないような何かを強烈なインパクトとともにもたらすアバンギャルドたちによって創られてきました。
そしてそんな時代のフィレンツェに居合わせてパリジに可愛がられたことが、もちろんカロにそのような資質があったからこそでしょうけれども、カロの才能を一気に開花させる引き金になったのだろうと考えられます。
次の版画は、愛のキューピットの船を中心にアルノ川のなかで一大パフォーマンスが繰り広げられている場面です。向こうの方にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)の屋根が見える川辺を見物人が埋め尽くしています。ポンテベッキオの隣のサンタ・トリニータ橋と、その下流にあるアルラ・カライア橋の間にたくさんの大小のゴンドラが浮かび、川の中には人間ピラミッドを組んでいる人たちもいます。
身分の高い人たちは馬車に乗ったりゆったりと特等席から水上パフォーマンスを見物していますし、向こう岸と二つの橋の上を市民が埋め尽くしています。馬車もなかなか凝っていますし、貴族たちもみんな着飾っているようです。こんなものが入場料も払わずに見られるのですから、市民は大喜びだったでしょう。ローマ時代にはパンとサーカスという言葉がありました。いつの時代でも、人々にとってはちゃんと食べることはもちろん重要ですけれども、時々このような非日常的なお祭りがあってこその人間の暮らしで、その二つを叶えることができなければ、治世者としては失格です。その意味では、自らが好んでそのようなお祭りを繰り広げることにお金を使ったコジモ2世は、市民にはさぞかし人気があったでしょう。
現在のアルノ川は、このような大きな船でパフォーマンスが展開できるような水深はないように思いますけれども、川そのものは、昔も今もそれほど変わらないとすれば、おそらく下流をせき止めて水かさを上げていたのではないかと思われます。それにしてもなんだか楽しそうでウキウキしてきます。
この版画を見ていると、人々の歓声や、船を漕ぐ人たちの掛け声や、パフォーマーたちの動きを指揮するラッパの音まで聞こえてくるような気がします。そして私たちが、この当時のフィレンツェの様子を垣間見ることができるのは、このような版画があるおかげです。

このようなイベントは今日では写真やムービーとして残されますけれども、この時代においては、そのようなメディアは絵画や版画しかありませんでした。しかしこのようなパリジのデザインを踏襲した版画は、単なる記録というのとは異なる働きを持っていました。つまり写真は実際に存在したものを写しますが、このような版画は、これから行われるお祭りに対するパリジのヴィジョンを描いたものであり、一種のマスタープランとしての役割を持っていたということです。
このような山車や衣装の制作には多くの人が関わりますし、出演者も多いですから、これから何をするかを共有する手段として版画は極めて優れています。絵画は基本的に一枚しかありませんけれども、版画はたくさん刷ることができますから、参加する職人やアーティストたちが、その祭りはどのようなものであり、どんな驚きや感動をパリジが与えようとしているのかというイメージを共有することができます。
現に起きたことを正確に映像化する写真に比べて版画は、記録的な要素に加えて、このような版画の場合、プロジェクトに関わる人たちにとっての指針、例えば工房で版画を手にしてそれぞれが、ここはこうしよう、こうした方が面白いかもしれないなどと、さまざまにイメージを膨らませたり工夫を凝らしたりすることができます。
つまりこのような版画によって、ヴィジョン、あるいは成し遂げるべき目的を共有することで、プロジェクトに関わる多くの人たちのイマジネーションを喚起し、それを活かすことができるということです。カロもまたパリジの側近のチームの一員として、パリジのデッサンを版画化する作業のなかで、デッサンを正確に描くだけではなくて、衣装や動きなどの細部にカロなりの解釈を施したり、あえてカロ風な誇張を加えたりもしたでしょう。そしてそのような能力があったからこそ、カロはパリジに気に入られたのでしょう。
-…つづく