コジモ2世は本当にお祭りが好きだったようです。春に「愛のキューピットがトスカーナにやってくる」という大規模な祭典を行い、そして秋の謝肉祭にはサンタクローチェ教会の前の広場で、「愛の戦い」というイベントを開催しています。なんと今度は自らが、パリジがデザインした奇妙な山車に乗ってパレードしているくらいですから、よほどお祭りが好きだったのでしょう。
ルネサンス期のフィレンツェは、人間と文化やアートや社会ということを考えるとき、実に興味深い街でした。人間は食べるものがあって、雨風をしのげる家があって、身につける衣服がなければ人間らしく暮らすことができない動物ですけれども、それと同時にそれだけでは満足できない不思議な動物です。
たまには美しく飾り付けた美味しい料理を食べたいと思いますし、家の中を自分の好みに合わせて飾り付けたり、お祭りの日にはとっておきの服を着て街を歩いてみたいと思ったりします。考えてみれば人間は日常の生活においても、どこかで自分らしさや美しさを求めますし、それが人間らしさを形成しています。けれども、それに加えて人は時に、普段は体験することのできない非日常的な時空間との触れ合いに喜びを見出す不思議な存在です。そして、こうした人間的な感覚が、人間に特有の文化を生み出す原動力になってきました。
人間は社会という、弱者を含めた多様な人々が協働することで人として生きるという独創的な仕組みを創って、長い歳月を生き延び、そして世界中に自らの居場所とその場所に特有のルールや文化を創り出し、それを大切に育みながら生きてきました。つまり社会は衣食住を満たすためだけにあるのではありません。人間らしく文化的に生きることを促進するための仕組みにほかなりません。
ですから、社会という仕組みの構成員、あるいは社会運営を担う立場にある人の役割は、社会を構成する人々が不安や恐怖を感じる事なく、また衣食住に欠く事がないようにすると同時に、その社会の中で人間らしい喜びと共に生きていけるようにする事です。つまりそれらが同時に多様にかつ活発に機能していてこその社会です。
そう考える時、ある時期のベネツィアもそうであったように、フィレンツェもまた、スペインやフランスなどの強大な軍事力を持つ大国に睨まれながらも、独自の文化性を保ちつつ豊かな暮らしを営んでいたのですから、ルネサンス期のフィレンツェほど、文化的に豊かな社会を育んだ街は歴史的にみても珍しかったかもしれません。
そこでは祝祭や演劇などの非日常的な時空間創造が盛んに行われました。その意味では歴代のメディチ家の大公たちは、トスカーナという豊かな大地と、その中心的な存在としてのフィレンツェという都市の、優れた社会運営者でありプロデューサーでもあり、コジモ2世はそのヒューマンレースの華やかなバトンを受け継いだ最後のランナーであり、祝祭が文化にもたらす役割や効果を、ほとんど本能的に、あるいは感覚的に熟知していたように思われます。
都市は基本的に、その周辺の農地や川や海や山、そこで暮らしを営む人々と共に成り立っています。そこではもちろん食べ物が採られますし、そのために必要な様々な文化的技術、すなわち農耕や牧畜や鍛治や狩猟や漁業や航海や製材や石積みや建設など、生活にまつわるあらゆる技術が育まれます。そして都市はそれらが集積されミックスされ洗練される場所です。そして祝祭は、自然を畏れたり、そこから得る恵みに感謝したりする人々の気持ちとどこかで重なり合っていると同時に、日々の営みのなかで育まれた技術を、本来の決まった目的のためだけにではなく、人々に非日常的な喜びをもたらす祭やそのための山車や飾りや特別な建造物などといった特別な目的のためにイマジネーションを働かせながら総動員する格好の機会です。そこでは自ずと様々な工夫がなされますし、そこで発見された新たな技術はまた逆に、日常に生かされてもいきます。
そうした祭りと文化技術とのイマジネイティヴでダイナミックなコラボレーションの中で多くのことが生まれました。日本でも、非日常的な喜びをもたらす祭りがなければ、ねぶた祭りの幻想的なねぶたや、祇園祭の華麗な山車も生まれなかったでしょう。
次に紹介する版画は、謝肉祭の時の一大イベント「愛の戦い」に登場する山車です。版画の上段の右側は「アフリカの車」と名付けられた山車で二頭の像が引っ張っています。像と比べると山車の大きさがわかりますが、とんでもない大きさです。車輪は見えませんが「車」とありますから、おそらく内部に隠れていて、山車は地面からわずかに浮かび上がっているのでしょう。平らな広場での催しですし、なんせ像が引っ張るのですから、それでもちゃんと動いたのでしょう。
左側の山車は「アジアの車」と名付けられていて、コジモ2世はどうやらこれに乗ったようです。兵士たちに守られて木の生えた高みにいるのがコジモ2世でしょう。なんと山車を引っ張るのはラクダです。中段の右側の山車は「インドの女王の車」です。ちなみに「アフリカの車」はコジモ2世の弟のロレンツォ公が指揮をしていて、イベントは、コジモ2世率いるアジア軍とロレンツォ公が率いるアフリカ軍が賑やかな楽団とともに戦いを繰り広げ、佳境に達したところで中段の「軍神マルスと愛の女神ヴィーナスの車」が仲裁に入って仲直りをして大団円となったところでカーニバルの余興が始まるという趣向だったようです。版画の下段には様々な趣向を凝らした衣装が示されています。総合デザインはパリジ、振り付けはアグノロ・リッチ、音楽はジャコボ・ペリ、パオロ・グレッチ、ジョバンニ・シグノリーニが担当したようです。音楽は聞こえてはきませんが、さぞかし凝ったものだったでしょう。

次に紹介する2点の版画は、サンタクローチェ教会の前の広場の特設劇場での群舞を描いたものです。仮設の円形劇場が組み上げられ、その上の観覧席を多くの観客が埋め尽くしています。広場を取り巻く建築の屋上にも大勢の人がいます。上の画の左のほうに入場門、右のほうに退場門があったようです。正面に設えられているのが貴賓席でしょう。よく見ると劇場の外でも大騒ぎが繰り広げられていて、衣装も様々です。なんだか楽しそうです。下の版画の画面の左下には竹馬を履いて背を高くした人の姿が見えます。こういう風にして、それらしい衣装を着て巨人に見せる方法はスペインのお祭りなどでもよく見られます。
注目すべきは、左下と右下の影のように描かれた人物群です。このように、手前に大きな暗い画像を置いて、あたかも額縁で縁取るかのようにして画面を引き締め、あるいは劇的でダイナミックな空間性をもたらす方法は、カロがこれからしばしば用いる、実にカロらしい表現方法です。この時点で既にカロが独自の表現方法を見出していたことがわかります。


次の絵は、楕円形の特設劇場で展開される群舞の陣形とその変化を描いたものです。番号が振ってありますから、その順番で場面が進行していったのでしょう。参加者たちはこれを見れば、自分がどこでいつ何をするのかがわかります。もちろんリッチの振り付け指導のもと、何度も練習を重ねたに違いありません。こうしたフィレンツェのお祭りは、市民を楽しませるためのものですから、観る方だけではなく、演じる方もさぞかし楽しかったでしょう。先の版画の手前の人を見ると、円形劇場の中の演技者と同じ格好をした人がいます。会場には音楽が鳴り響いていますから、劇場の中の人と外の人とが、まさしく一体となって楽しんでいる様子がよくわかります。

こうしたイベントを、目が肥えた大公や来賓やフィレンツェの市民を前にして成功させるには、大変な準備を要したでしょう。おそらく春のイベントが終わればすぐに秋のイベントを目指してパリジ以下、スタッフも演技者も演奏者も山車の制作に関わる人たちも皆、さぞかし創意や工夫を凝らしたことでしょう。凝った意匠の山車には絵も描かれていますし、乗る人数によっていろいろと、またちゃんとした装置にするために工夫しなければならないことや、そのために考案しなければならない部品や、小道具なども含めて、これを機会に新たに創りだされたものも多々あったでしょう。祭りが文化や社会を豊かにする一つの起爆剤になるというのはそういうことです。
フィレンツェのドゥオーモや、ジョットの塔やその空間を彩る絵や彫刻やその調和なども、そうしたなかで培われた技や美意識の集大成にほかなりません。ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)は、世界最大級のドーム天井を有する建築ですが、それを支える下部の建設が済んでもなお、その上にどうやってドームを建設すれば良いかが、多くの人々が検討を重ねてもわからず、1418年についに解決案を公募で募ることにし、その中からブルネルスキの案が採用され、建設が始まりましたが、それでもドームの頭頂部に乗せるクーポラ(展望見晴らし回廊)のデッサンはあってもそれをどうやって建設するかも、そのようなものを乗せてもドームが崩れないという確証もなく、再びコンペが行われ、今度はミケロッツォの案が採用されて彼の指揮のもとに工事が再開されましたが、全体が完成したのは、ドームのコンペが行われてから40年以上も経った1461年のことでした。ちなみにクーポラのてっぺんに乗せられている十字架を乗せた巨大なブロンズの球は、レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠のヴェロッキオの作品です。それを頂上に乗せるだけでも大仕事で、そのためだけに巨大な機械が考案されたほどです。つまりフィレンツェのドゥオーモは高度な技術があったから創られたのではなく、フィレンツェの人々や建設に関わる人々の、フィレンツェの大聖堂はこうあってほしいという想いの結晶としてのヴィジョンがあったからこそ、それに牽引されて無数の新たな技術が編み出されたのだということです。
美しい街には、そこで夢想され、それを実現するために営々と育まれた文化が染み込んでいます。つまり象徴的な建築や広場のような都市的な空間は、このような文化的な営みと共にあるということです。広場や河や建築と一体となったフィレンツェの美しさは、そのような文化的な積み重ねの賜物にほかなりません。
-…つづく