カロは『聖地巡礼報告書』を制作した1619年から1620年にかけて、その対極にあるような作品を2点制作しています。『大狩猟』と『インプルネータの市』です。どちらも大きな版画で、前者は198×467mm、後者はさらに大きくて436×678mm、銅版画としては極限的なサイズです。
カロの才能と技量と情熱と表現力を総動員したかのようなこの二つの作品は、その頃、結核が悪化して病床に臥せっていたコジモ二世に捧げられています。『大狩猟』は王侯貴族たちの一番の楽しみである狩猟を、『インプルネータの市』はお祭りの日に催される大掛かりな市という庶民にとっての楽しみを描いたものです。
16回で紹介した『聖地巡礼報告書』は、病床にあって聖地を訪れることなど到底できないコジモ二世に代わって、僧侶のベルナルディーノ・アミコ・デ・ガリポリがはるばる聖地を訪れ、重要な聖地をつぶさに巡って調査し、聖地や教会などの聖蹟を詳細に描き記した報告書を、カロが忠実に版画化したものでした。そこには、それによって巡礼を大公に追体験してもらうことで病から回復してもらうことを祈願するという気持ちが強く働いていたでしょう。それはもちろん大公の願いでもあったでしょうけれども、同時に、篤い宗教心を持つのみならず、文化や芸術をこよなく愛したコジモ二世を慕うカロたちの願いでもあったでしょう。
テーマがテーマであるだけに『聖地巡礼報告書』では一切の作為を廃してガリポリの図面を正確に再現することに徹したカロでしたけれども、この二つの作品では、実に豊かな表現力を労をいとわず懸命に発揮しています。そしてそこに描かれているのは大公が愛するトスカーナの豊かな営みです。
そこには、もはや狩をすることはかなわず、フィレンツェから南に10キロ行ったところにあるインプルネータの聖ルカ祭の盛大な市場に集って年に一度のお祭りを楽しむ民の姿を見ることもできなくなった大公の心を、せめて絵にして見せることによって愉しませようとするカロの気持ちが溢れているように感じます。まずは『大狩猟』を見てみましょう。
実にカロらしい画面構成で、前方の両サイドに大きな樹や人物を配して、画面空間を縁取り、中央に遥か彼方を見通すような遠景を配し、その間の光溢れる場所で狩を楽しむ多くの人たちを描いています。このような大空間を不自然さを感じさせることなく描くことは、カロの表現力、描写力があって初めて成し得たことでしょう。
描写は細部まで実に細やかで丁寧、しかもどこかユーモラスです。この版画はエッチィングですけれども、カロがよく用いる、ビュランという先が尖った道具で銅版を彫るエングレーヴィングによるくっきりとした鋭い線による表現ではなく、ここではあえて、樹の幹などの太い線の部分も含めて、全体的にどちらかといえば柔らかなタッチの表現をしています。

画の中には実に多くの情景が盛り沢山に描かれています。左手前には逸《はや》る猟犬を抑えている人がいますし。その左の方には落馬した人がいて、左手の手元には狩で用いるラッパが転がっています。主人を失った裸馬がそのまま向こうに駆けていますし、落馬した人を指差して笑っている人たちもいます。
左の方の集団の最前列にいる二人は上を見上げています。騎馬に乗った貴人も何頭かの犬も同じように上の方を見ています。視線の先には小さく二羽の鳥が描かれていますから。これは鷹狩りをする集団なのでしょう。
画面の中央には大勢の騎馬姿の人たちや犬たちが獲物を追いかけていて、どうやら川岸まで追い詰められた獲物は見事な角を持った牡鹿のようです。その右側の方には、おそらく獲物を逃さないための柵あるいは網のようなものが設けられています。その手前には4頭だての馬車があり、側には警護のためなのでしょう、6騎の騎馬が整列しています。大公もこのような馬車に乗って狩猟を観覧したことがあったのかもしれません。
川の向こうの切り立った崖の上には立派なお城のような館がありますし、その下の方の畑には、ご丁寧に牛に鋤を引かせて畑を耕している農夫の姿まで描き込まれています。左の二本の大きな木の間の向こうに見える崖の下には、拡大をして見ると、水飲み場があるのがわかります。おそらく湧き水があり、それを利用して水飲み場をつくったのでしょう。この場所が狩場となっているのは、地形の良さもあるでしょうけれども、水飲み場があることも関係しているかもしれません。
とにかく画の中には、数え切れない人や馬や犬などが描かれ、それぞれいろんなことをしていますから、見ていると次々に想像が湧いてきますけれども、同時に、カロのこの画に込めた想いのようなものも強く伝わってきます。
『インプルネータの市』という作品も、カロの静かな情熱が横溢しています。作品の中には市場に集う無数の人々が描かれています。例によって画の両サイドに大きな形象を配していますけれども、この作品ではそれはむしろ控えめで、カロは盛大な市場の様子を表すことに専念しています。
この作品を制作するためにカロは、二百枚以上のスケッチを描いたようです。つまりそのようにしてつぶさに見た市や人々の様子をカロが再構成し、あらゆる情景をこの画の中に凝縮したということです。ですからカロは、この画の中に登場するトスカーナの人たちが何をしているのかをコジモ二世に細かく説明することもできたでしょう。そしてそのことで大公はしばしの間、病を忘れることができたかもしれません。
画を見ると、右側のにわか仕立ての台の上には、蛇を片手に巻いた男と、もう一人、おそらくは何か仕掛けが施されている道具を持った男がいます。何かを売りつけようとしているのか、それとも芸人なのかはこれだけではわかりませんが、まわりには大勢の人が集まってきています。

大きな木の影の後ろ向きの男は用を足しているようにも見えます。左の方の手前には、足の悪い人を乗せた台車を引いている人や、その後ろには鷹を腕に乗せた人と犬を連れた人が歩いています。その左には大きや屋台があり、いろんなものが売られています。その上の方には、縛られて吊るされている人がいてそれを大勢の人が取り巻いて見ています。吊るされている男の足にはどうやら秤がくくりつけられているようですから、秤に細工をして目方をごまかした悪徳商人なのでしょう。
正面の教会は現在のものとは違いますが、しかし高い塔や時計台は姿は今と変わりません。画の中央のやや手前の方には立派な馬車がいますが、なぜか馬車の後部の車輪の間に人が座っています。トスカーナはキャンティワインで有名なところですから、飲み屋のテントもいくつか見えます。
左端の建物には、なぜか壁に張り付いている人がいて、屋上から二人の男が男を引っ張り上げようとしているようですが、どうしてそんなことをしているのかはわかりません。右側の4本の木の間には、おそらく歌を歌っているのでしょう、二列に並んだ八人の人たちがいて、それを大勢の人が円陣をつくって見ています。それにしても実に盛り沢山な画です。しかしちゃんとスケッチをして、それを元にこの版画を創ったカロであれば、この人たちがそれぞれ何をしているのかを、事細かに説明できたでしょう。豊かなトスカーナの人ならではの喜びに満ちた民の暮らし。コジモ二世は、この画を気に入ったに違いありません、カロに特別に褒美を授けています。
しかし、トスカーナとコジモ二世と、そのお抱え版画師であるカロとの関係にも終わりが近づいていました。そしてコジモ二世もカロも、遠からずそのような日が来ることを知ってもいたでしょう。
-…つづく