精緻な大判版画を創っても、宮廷からは一向に注文が来なかったカロに、1627年になって突然、シャルル4世が開催することにした宮廷槍試合の祭典の模様を版画で記録してほしいという注文が入りました。それに対してカロは14点の版画を制作しましたけれども、それを見ると、扉絵のすぐ後の実質的な版画集の最初に描かれていたのは、第22回で紹介したファルスブール公ルイ・ド・ロレーヌ、通称プリンスが豪華な山車に乗って入場する姿でした。
考えてみればファルスブール公は前大公のアンリ2世から全幅の信頼を得て、実質的にロレーヌ公国の運営を任され、アンリ2世としてはできれば娘のニコルと結婚させて、ゆくゆくは彼に大公になってもらいたいと願っていた人物であり、領民の人気も高い公国のホープでした。だからこそカロは、ナンシーに帰ってからすぐ、まずは彼の肖像版画を制作したのでした。カロが3年間の期限付きとはいえ公的な年金をもらえたのも、アンリ2世へのプリンスの進言があったからこそでした。
アンリ2世の願いはしかし、大公の座を狙うシャルルの略奪結婚のような裏工作によって消え、おまけにシャルルは一旦は大公になったニコルさえもその座から引き下ろして自らが大公となりました。
とはいえシャルルはそうして大公になった1625年時点ではまだ19歳に過ぎず、ドイツとフランスの国境沿いの歴史ある公国であり、現在のルクセンブルクやベルギーに至る広大な領土を持つロレーヌ公国を運営したり、大国の狭間で外交手腕を発揮したりなどできるはずがありません。したがって国事に関しては、そのままファルスブール公が行っていたと考えられます。カロに仕事が回ってきたのもそのためでしょうし、だからこそ槍試合会場に真っ先に入場する騎士、ファルスブール公の姿を描いたのでしょう。

ファルスブール公の入場
『ファルスブール公の入場』では、松明を掲げた従者たちが先頭を行進し、その後に鼓笛隊が続き、その後に恐らくは軍神マルスとヘラクレスが引く戦車に乗ったファルスブール公の姿が描かれています。
槍試合は主だった貴族を代表する騎士たちが飾り付けられた山車に乗って従者たちを従えて街をパレードし、やがてナンシー宮殿の会場に入るという趣向だったようで、カロにとってはフィレンツェで親しんだ数々の祝祭を思い出さずにはいられなかったでしょう。
フィレンツェではカロの才能を最初に見出したパリジが祝祭の演出を行なっていましたが、ナンシー宮ではデュルエという人物が行ったようです。ただ飾り付けの意匠を見ると、このようなことを華の都フィレンツェでよく目にし、それを版画に描いてもきたカロのアイデアもどこかに反映されていたのではないかとも思われます。
ちなみにこのころのヨーロッパの騎士というのは、近代の国家運営における治世者とは大きく違って、自らが外敵と勇敢に戦って領民と領土を守る存在であって、だからこそ貴族として尊敬もされていたわけですから、武芸のたしなみがなければ話になりません。ロレーヌでもそれは同じで、だからパレードにはロレーヌを代表する貴族たちが、それぞれ意匠を凝らして次々に登場します。それらをナンシーの観衆たちと同じように観てみましょう。

ド・ブロンクール候、ティヨン候、マリモン候
これはリュートの調べと共にドラゴンのような海の怪獣に乗り槍を持って登場する『ド・ブロンクール候、ティヨン候、マリモン候』です。海を渡ってやってきているように描かれていますが、これはカロの表現上の演出で、実際には水を張った山車だったかもしれません。
その次に登場するのは『ド・クーボンジュ候とド・シャラブル候』で、なんと地獄の悪魔たちと一緒に炎を吐く龍の山車に乗って登場しています。山車の前を行く悪魔たちもどうやら火を吐くヘビのようなものを掲げていますが、これはもしかしたら花火のようなものかもしれません。

ド・クーボンジュ候とド・シャラブル候
パレードのトリはいよいよ『ロレーヌ公シャルル4世の山車』です。先導する山車もさすがに凝ったもので、版画右下の山車には音楽を奏でる大勢の妖精たち、その後には洞窟の中で武器を鍛える鍛治神ウルカヌスと、一つ目の巨人でやはり鍛治神でもあるキュプロークスを乗せた山車が続きます。そして女神たちを乗せた噴水を施した山車の後に、太陽神アポロンに扮したシャルル4世を乗せた戦車が現れパレードを締めくくるという趣向です。

ロレーヌ公シャルル4世の山車
次の版画は『ナンシー宮殿内の槍試合』の様子を描いたものです。相当大きな広間でたくさんの観衆がいてすでに試合が始まっていますが、版画の右のほうにファルスブール公が乗ってきた戦車が描かれていますから、戦っているのは彼が率いる戦士たちなのでしょう。当時は騎士たちに相応しい武器は基本的に長槍で、戦でもすでに鉄砲があったとはいえ槍部隊が最も重要でしたから、出番を待つ戦士たちもみんな槍を真っ直ぐ立てています。ドレスのスカートを両手で持ち上げて敬意を示しながら剣尖する大勢の淑女たちが細かく描き込まれていたり、右手前の前景に人を配するなどとてもカロ的な表現がなされています。

ナンシー宮殿内の槍試合
ところで、この槍試合はなんのために行われたのかということですが、この意図が実は大問題でした。シャルル4世にはマリー・ド・ロアン(1600-1679)という四つ年上の名家の娘として生まれた従兄姉がいましたが、彼女はまずフランスのブルボン家のルイ13世の信頼のもと軍の総司令官をしていたリュイヌ公と17歳で結婚して、ルイ13世妃アンリ・ドートリッシュ妃(1601-1666)のお目付役になります。
アンリはハプスブルグ家のスペイン王フェリッペ3世の娘でしたが、スペインとフランスの緊張関係を和らげるために14歳で政略的に結婚したルイ13世とはあまり仲が良くなかったためか子どもに恵まれず、37歳でようやく後のルイ14世となる息子を生みます。1643年に夫が亡くなると、まだ4歳でしかなかったルイを王位に就かせるべく尽力し、ルイがルイ14世として王になった後は、その後見人として王権の確立に力を発揮し、やがてルイが太陽王と呼ばれることになる基盤を築いた女性です。
この頃の王たちの結婚は基本的に政略結婚でした。この時代のヨーロッパの王や貴族たちの婚姻関係は大変に複雑なのですが、複雑だということはそれだけ権力をめぐる争いや陰謀が生じやすいということであって、マリーがアンリ妃のお目付役になったのも、要はマリーの夫の地位を脅かすようなことになりかねない人物をアンリ妃に近づけないよう見張せるためでした。
そんな夫と結婚したマリーが陰謀や策略にはまり込んで行くのも無理はなかったかもしれません。21歳の時に夫が戦死すると、マリーは翌年すぐにシュブルーズ公クロード・ド・ロレーヌと再婚しますが、この夫もなかなかの策士で、しかも彼女自身が恋多き女で、どうやら美人でもあったため愛人が何人もいたりして、いろんなトラブルを巻き起こします。
その最たるものが、あろうことかルイ13世の生涯の相談役であり後ろ盾の宰相でもあった枢機卿のリシュリュー公の暗殺を愛人たちや夫のシュブルーズ公とともに企て、それは結果的には失敗に終わっていますが、リシュリューを暗殺しようというのは、もちろん最終的な目的としてはルイ13世から王位を奪うということです。
未然の大事件に終わったそんな大騒動の結果、愛人の一人のシャレー伯爵は処刑され、マリーは慌てて従兄弟のシャルルを頼ってロレーヌに逃れます。しかしそんな暗殺劇を通して、フランス王の座を脅かす、つまりはフランスそのものをなんとか手に入れることはできないかという野望を抱くイングランドなどの貴族たちとも通じるようになっていたマリーは、ロレーヌに来るなり早速シャルルを色気でたぶらかし、さらには数多い愛人の一人であったイングランドのバッキンガム公からの密使が届けてきた手紙を見せるなどして、ただせさえ権力欲の強いシャルルに、フランス王の座を奪い取ることだって不可能ではないという妄想を植えつけます。
バッキンガム公からの手紙にはなんと、自分が大軍を率いてノルマンディーからフランスに攻め込むから、それに呼応してマリーの本家のロアン家とサヴォア公が南仏から、そしてパリに近いロレーヌのシャルルが東から攻め上れば一気にパリを陥せるという、とんでもないことが書かれていましたが、もしかしたらそれもマリーがバッキンガム公に吹き込んだ計画だったかもしれません。
ともあれ、そんなわけでナンシー宮は陰謀の巣窟となってしまい、シャルル4世の頭の中は自分が総大将となってパリに攻め入り、ルイ13世を追い落として自らがフランス王となるという最大級の妄想でいっぱいになってしまいました。そして宮廷槍試合は、その大計画の黒幕ともいうべきマリー・ド・シュブルーズがロレーヌに来たことをロレーヌを挙げて歓待するという名目のもとに行われたのでした。
シャルルが本気だった証拠には、翌1628年、カロに巨大な家系図を制作させています。これは縦が2メートル横が68㎝もあり、自分の家系は神聖ローマ帝国皇帝カール5世よりも由緒正しくハプスブルグ家よりも歴史のある名家だということを示す、あるいはでっち上げるためのものでした。こんなものをつくれと命令されたカロも災難ですが、そこには家系を表す大樹の枝葉に無数の名前が画面いっぱいに書き込まれているだけで、カロが創造性を発揮する余地など全くありませんでした。
しかしルイ13世から見ればマリーは、リシュリューの暗殺を企てフランス王の座まで奪おうとし、それに失敗して逃亡した許し難き女性でしかなく、そんな者のために宮廷槍試合をやるようなシャルルとロレーヌとを黙って放置しておくわけにはいきません。そんなわけで1641年にロレーヌはリシュリュー率いるフランス軍によって占領されてしまうことになります。
ちなみにバッキンガム公の、あるいはマリーが吹き込んだ作戦は実際に決行されました。しかし、彼が率いる軍勢が決起してフランスのレ島に攻め入ったにもかかわらず、それを合図に旗を揚げるという密約がなされていたはずの諸侯が誰一人として動かず、陰謀は結局頓挫してしまったのでした。
-…つづく