フィレンツェ時代に、コメディア・デラルテの演者たちのスケッチを大量に描きためていたカロは、ナンシーに戻ってから、それをもとに1621年から1622年にかけて、24点からなるシリーズ版画を制作しています。カロがコメディア・デラルテの大ファンだったからということもあるでしょうけれども、それにも増して華やかだったフィレンツェへの郷愁もあったでしょう。そしてまたナンシーの知人たちに、フィレンツェでは毎日のように面白い大道演劇が繰り広げられていたんだよ、本当に面白いんだよ、というような話をしても、このような身体芸術を言葉で説明するのは難しく、版画にして見せればその本質がダイレクトに伝わると思ったのかもしれません。
このシリーズではカロは、面白みが基本的に動きや言葉の掛け合いにあるコメディア・デラルテの魅力を伝えるために、二人の役者を向かい合わせて様々な動作や振る舞いをさせています。絵の下には演者の名前を入れていますが、その名前がみんな違いますから、優秀な演者たちがたくさんいたことが分かるようにもなっています。
画面の前面には、二人の演者の掛け合いが活きいきと描かれ、その背景には、街の中で演技を繰り広げるコメディア・デラルテとそれを観る人々の姿が小さく描かれています。
ただ表紙絵だけは三人の楽器を持った演者が舞台の上にいて、背後のカーテンから顔を覗かせている人たちや、それを袖から見ている人たちもいますから、この演劇が街頭だけではなく、舞台で行われることもあったということを表しています。
フィレンツェではコメディア・デラルテは実際に劇場でもよく行われたようですけれども、おそらくカロは、大衆を相手に街頭で繰り広げられる奔放なコメディア・デラルテをより好んだのではないかと思われます。
それでは、このシリーズで描かれた絵を見てみましょう。












こうして並べて見ると、彼らが実に躍動的で滑稽で多彩な演技をしていたことがよくわかります。女性や楽器を弾いている人たちは衣装を着ていますけれども、仮面をつけて奇妙な格好をして飛んだり跳ねたりしている連中はほとんど裸に近い格好で、コメディア・デラルテが鍛え上げた体を駆使して人間業とは思えないような動きをしてみせる一種の身体芸術だったことがわかります。
とはいえ、股間を誇示する小道具まで付けて奇妙で下品な動作をしたり、わざわざ大きな注射器まで持って浣腸をしている演者もいますから、観客から笑いをとってこその演技だったことがよくわかります。
彼らの身体能力は超人離れしていたらしく、たとえばワインを満たしたグラスを手のひらに乗せたまま宙返りをすることなどは朝飯前だったようですから、ほとんど軽業師です。
多くは頭に羽飾りをつけ、布を手にしていたりしていますけれども、彼らのキビキビとした動作に比べれば、ユラユラと動く羽飾りも滑らかな布も対照的な動きをしたでしょうから、その対比が面白く、体の動きの素早さを誇張する働きをしたりもしたのでしょう。
絵を見ると、女性たちは仮面を付けておらず、とても優雅な衣装をつけて美しいのに比して、仮面をつけている男の連中、とりわけ裸に近いいでたちの演者はかなりグロテスクで、その対比が互いの存在を誇張しあっているのでしょう。
劇場では第15回の画の役者たちの背後に描かれているように舞台設定もありますし、物語の筋や展開や言葉のやり取りもあって、より演劇的だったでしょうけれども、街頭ではむしろ瞬間芸や動作の面白さなどを強調するものが多かったでしょう。
フィレンツェではお祭りの時などには、いくつもの劇団、もしくは一座がやってきて互いにしのぎを削りあったそうですから、自分たちの存在を知らしめるべく街頭に出て演技を繰り広げる中で、時には他の一座と同じ場所で鉢合わせをすることもあったでしょう。そうなれば互いに意識して、ことさら過剰な演技を繰り広げたりもしたことでしょう。そこにこそ、カロが描かずにはいられなかった面白味があったのでしょう。感動は意外性や驚きのそばにあるからです。
こうして見てみれば、音楽があり踊りがあり歌があり言葉のやり取りがあり、そして常識を超えた身体表現が繰り広げられるコメディア・デラルテは一種の総合芸術です。ただ考えてみれば、人間が編み出した芸術や娯楽の多くは総合表現でした。
何かにつけて物事を細分化してきた近代に入ってから、多くの表現が、音楽や絵画やグラフィックデザインやダンスや小説などにジャンル分けされて語られ、あるいは観賞されるようになりましたけれども、人間の表現というものはもともと総合的で時空間的なものです。
お祭りには世界中どこでも、言葉を音楽に乗せた歌や踊りや楽器の演奏、そしてそれを取り巻く人々の笑顔や掛け声や歓声がつきものです。教会の絵も、薄暗い建築空間やパイプオルガンの響きや賛美歌や跪く人々の姿やロウソクの炎や宗教と一体のものです。
今は本の中に収められて黙読されることが多い物語も、もともとは語られるものとしてありました。たとえばダンテの『神曲は』主人公のダンテが地獄、煉獄、天国と、三つの冥界を巡る長い物語ですけれども、三行詩の形式で書かれています。つまり声に出して読まれ聴かれてこそ、その良さが伝わるスタイルで、作品そのものが読む人の声色や言葉の強弱やリズムなどの音楽的な要素や、その場の空気感や気配や空間の雰囲気などと共にありました。
オペラや演劇も、声や音楽や身体や衣装や言葉や舞台美術などによって総合的に構成されています。そこでは同じ言葉でも、語り口や脈絡や相手や効果音などによって異なるニュアンスや意味を持ち得ます。それは日常の中の会話においても同じで、大切なのは何かを誰かに伝えるということです。
そのために人は言葉や楽器や踊りや衣装や数字や絵などのコミュニケーションの方法や道具を創り出し、それによって何かを表現したり感動したり、同じ体験やイメージや目的を共有して何かを成し遂げたり仲間意識を持ったりして、喜びや哀しみや楽しみを分かち合って生きてきました。それが人間ならではの働きであり、その成果としての文化であり、それが人の心を育ててきました。つまり人が人であるためには文化はなくてはならないものです。
同じように見えても、よく見れば一人ひとりみんな異なる顔や好みや感じ方を持つ人間。けれど、みんな違うようでありながら、それでも同じことに同じように感動したりもする人間。その間にあるコミュニケーションという表現と感受と想像力が織りなす魔法、そしてそれを操ることができる人間の不思議。その不思議な力によって人は文化や芸術を創り、それを伝え合いながら人として生きてきました。
仮面を付けて異人となって、同じ人間でありながら鍛え上げた体で常人には考えられない動きや意外な振る舞いをし、普段の生活では口にするのも憚れるような言葉を連発しながら下品で卑猥な動作を畳み掛けるように展開し、かと思えばわざと滑稽なヘマなどをもやらかして笑いを取り、あるいは美しい女性の優雅な踊りでしばしうっとりさせるなど、考えてみればコメディア・デラルテは、人間の喜怒哀楽などの感情や感覚の根っこのようなものにダイレクトに触れてくる芸能の達人、人々が何に驚き何に喜び何に笑い何を面白がるかというツボを心得た演劇集団だったのでしょう。
そしてそれを伝えようとするカロの版画という表現もまた、コミュニケーションやイマジネーションという、人にとって必要不可欠な心身の働きとダイレクトにつながっています。もしこのようなカロの版画がなければ、私たちはかつて一斉を風靡した人気芸能 コメディア・デラルテがどのようなものだったかを、窺い知ることができないのですから……。
-…つづく