第134回:クリスマス商戦とクリスマス休戦
更新日2008/12/25
私が店を始めて以来、最も静かな12月である。お客さんに伺ってみると、これは自由が丘に限ったことではなく、どの繁華街でもほとんど人が歩いておらず、車の量も極端に少ないそうだ。
自由が丘も、例年と変わりなく、早くも11月も半ばを過ぎた頃から、イルミネーションを施し、音楽を流してクリスマス気分を盛り上げ、クリスマス商戦を繰り広げている。けれども「笛吹けども踊らず」というのか、お客さんの反応がないのである。
サンタクロース姿で売り場に立っている人も、いつもと同じくらいの数がいる。(前にも書いたが、私にはあの格好が、見ている側としても気恥ずかしくてならない。今年は、住宅のオープン・ハウスでその姿をしている人がいて驚いてしまった)
そのサンタクロースたちが時間を持てあまし、手持ち無沙汰で雑談をしている姿が目立つ。不思議なくらい、街に気というものが感じられないのだ。
私の店も、先月まではそれほど悪いと言うほどではなかったが、ご多分に漏れず、12月に入って急激に落ち込んでしまった。急降下である。ラジオのニュースを聴いていても、「景気が悪化、今後ますます悪化する」という報道ばかり、ここまで報じられれば、皆さん出控え、飲み控えるのも当然だと思う。
「営業努力もしないで」と叱られるかも分らないが、報道は不景気感を呷りすぎているような気がする。日本人は基本的にとても素直な人たちが多く、「今こういう風が吹いているよ」と言われれば、それになびいてしまうものなのは、誰でも知っていることだ。
そこら辺りの見通しを、これは想像力の問題だと思うが、マスメディアのトップの方々は、どう掌握しているのだろう。一度真剣に伺ってみたいと思う。
さて、この不景気の大本であるアメリカ合衆国はどうなのだろう。彼らはクリスマス商戦という点では、まさに本場なのだから、大規模な展開を行なっていると思う。しかし、やはり彼らも、ミゾウユウなこの事態に背に腹は代えられないのではないか。
残念なことに、今の経済の仕組みでは、アメリカ人のクリスマス・プレゼントの羽振りが失せれば、日本の景気はますます先が見えないことになってしまう。
アメリカ合衆国有史以来の失政を繰り返し、自国のみならず、世界中をズタズタにしながらも、何ら修復もせず、やりっぱなしで職を去る史上最悪の大統領ブッシュは、この就任中最後のクリスマスを、どのような思いで迎えているのだろう。
「敬虔な」キリスト教徒であり、想像力というものに無縁な彼は、おそらく自身の行動のすべては、神からの力によるものと言い放つことのできる傲慢さを持っているに違いない。クリスマスの日、教会で頭を垂れ、手を組んで、自分にその力を与えてくれた神を讃美し、感謝の祈りを捧げるだろう。
私にはどうしても、ブッシュの「キリスト教の私物化、キリスト教精神の歪曲化」を、アメリカ国民、とりわけ多くのクリスチャンが延々8年間も容認してきたことが理解できない。(無論、真摯に反対を唱え続けてきた人々が存在したことも分っているが…)
それとも、私たちの持っている日本語訳の聖書は、英語から翻訳されたものらしいが、翻訳の段階でミスがあったとは思えないのに、まったく違う内容のものなのだろうか。
かつて、ベトナム戦争の時代聞いた言葉に「クリスマス休戦」というものがあった。発端は第一次世界大戦での英独戦の際、クリスマスを迎えた時期に期間中のみ非公式な停戦を行なったことによるものらしい。「せめて聖なるクリスマスの期間だけでも戦いを休もう」ということのようだが、何だかよくわからない言葉だ。戦いなどずっと止めてしまえばいいものなのに、とは思う。
ベトナム戦争では、最初は北爆の開始された年1966年に、キリスト教国ではない方のベトナム民族解放戦線側から提案(間違いなく戦力的な意味だろう)があったようだが、米側もそれに応じ、その後定期的にクリスマス休戦が取り入れられたという。
意味のあることだとは思えないが、「せめてクリスマスぐらいは」という思想は、少なくとも戦闘行為が宗教的には良くないことであるという認識があるから考えられることなのだ。
ところが、ブッシュは、自らが仕掛けたアフガン戦争にも、イラク戦争にも「クリスマス休戦」などという意識さえ持たなかった。それは「聖戦」であるからに違いない。彼にとっては良くないことではあり得ないのだ。十字軍そのものなのだろう。
生まれて来たときからキリスト教に接してきて、未だに入信しない人間として、私はこのクリスマスに思う。ようやくアメリカ合衆国も、そして世界も、少なくとも長い悪夢からは目覚めることができるだろう。ズタズタになったこの事態を、みんなの力で少しずつ地道に修復していこうと。
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