■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
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第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
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第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
第109回:ビバ、ハマクラ先生!
第110回:苦手な言葉
第111回:楕円球の季節
第112回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(1)

■更新予定日:隔週木曜日

第113回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(2)

更新日2008/02/14


高田の馬場で最初に入ったのは、地下1階でいくつか店舗が並ぶ中の1軒『Coffee & Jazz JUN』という名の店だった。私が生まれて初めて、自ら探して入ったジャズ空間である。かなり気張っていた。 「さあ、どんな音が聞こえてくるのか」と、店の人が飲み物の注文を聞きに来るのに答えるのももどかしく、ぐっと耳を澄ました。

ところが、どう聞いても店内にかかっているのはその頃流行りのポピュラー音楽なのである。「これは一呼吸を入れているだけだ、次は絶対にジャズだ」と仕切り直しをして次の曲を待ったが、何と聞こえてきたのはダニエル・ビダルであった。

さすがに拍子抜けがして、おそるおそる店の人に、「あのう、ジャズはいつかかるのですか」と聞いてみたところ、「何か前のオーナーはかなり掛けていたみたい。でも、私あんまり好きじゃないから。ごめん、看板見て入ってきた? 店の名前もみんな前のままにして営業しているの、ゆるしてね」とニッコリされてしまったのだ。

すぐに辞するのも失礼かと思い、もうしばらくコーヒーを飲んで店にいたが、レコードがポール・モーリアに変わったのを潮にその店を出た。

ところが、不思議なことに私は初めて入った本格的なジャズ喫茶については、まったく覚えていない。おそらく高田馬場のどこかだとは思うが、有名な『イントロ』はまだできていなかったし、どこなのだろう。拍子抜けした割には、私は『JUN』のことはよく覚えているのである。

その後、中央線沿いを吉祥寺『FUNKY』『MEGU』、高円寺『ホットハウス』、中野『ビアズレー』、新宿『ビザール』『サムライ』『DIG』『DUG』、代々木『ナル』『モウブ』、四谷『いーぐる』、お茶の水『ナル』『SUMAIRU』など転々と聞き歩いた。

家を中目黒に引っ越してからは渋谷によく出掛け、『音楽館」『デュエット』などに行き、その後は、ずっと『ジニアス』に通い詰めた。その辺りのことは、4年近く前のこのコラム「渋谷ジニアスの頃」に書いてみた。

私の最初に購入したジャズ・レコードは、ソニー・ロリンズの『ザ・カッティング・エッジ』だった。当時の帰郷先で、春日井市の小さなレコード屋さんで買ったものだ。1974年7月のモントルー・ジャズ・フェスティバルでのライヴ録音盤で、ロリンズがこちらに向かってニカッと笑っている印象的なジャケットだ。

そのときは、ジャズギターに関心を持っていたので、バーニー・ケッセルのアルバムとどちらかにしようかとかなり迷ったが、結局はロリンズを選んだ。この選択は良かったのではないか、と今でも思っている。

このレコードの最後に収録された「スウィング・ロウ・スウィート・チャリオット」は、ジャズでは珍しくバッグパイプを使った曲。ルーファス・ハーレイによるそのバッグパイプ、ソニー・ロリンズのテナーサックス、増尾好秋のギター、ボブ・クランショウのベース、デイヴィッド・リーのドラムスがリレーでソロをとる演奏は圧巻で、私は世の中にこんな素晴らしい音楽があることに感謝をし、文字通りレコード盤がすり切れるまで聴き込んだ。

最初に聴きに行ったプロのジャズメンは、やはりソニー・ロリンズだった。1975年、寒い季節だった気がする。新宿厚生年金の大ホール、この時は増尾も一緒だった。私は自分が生で彼らの演奏を聴いていることがにわかに信じられないほど、うれしくて、うれしくてたまらなかった。ロリンズは当時46歳だったが、モリモリ、バリバリ吹きまくっていた。

余談だが、その後ジャズの大御所と呼ばれる人たちはことごとく死んでしまった。マイルスもエバンスもモンクもベイシーも、ゴードンもペッパーもゲッツもウオルドロンもマクリーンも、みんなみんな死んでしまった。

けれども昭和4年生まれ(彼らにこういう呼び方をするのか分からないけれど)のロリンズだけは生き続けている。麻薬などで身体が蝕まれ、一番早く逝ってしまうのではないかと言われていたけれども、生きているのだ。しみじみと、うれしい。

閑話休題。ロリンズと共に披露してくれたそのファンキーな増尾好秋の演奏は、その後間もなくもう一度聴く機会に恵まれた。渋谷東急本店の屋上で行なわれた、渡辺貞夫多重奏団(何人だったか覚えていないが、かなりの人数のコンボだった)の演奏会。何と入場は無料だった。

私は最初ずっと増尾のギターの音を追っていたが、途中からより耳にストレートに入ってくる楽器にどんどん惹かれていってしまった。そして、演奏が終わると私は駆け寄っていってその楽器の演奏者に握手を求め、ただ、「素晴らしかったです、素晴らしかったです」と何度も繰り返していた。

その人の手は予想を裏切り、驚くほど柔らかかった。ベーシストの鈴木良雄さんはニッコリと、「どうもありがとう」と握手を返してくれたのだ。

「ベース、ベースなのだ。ジャズはベースに限るのだ」。若い頃というのは、滑稽なほどに思い込みが激しい。私は演奏を聴いた帰りのその足で、新宿の丸井の楽器店に赴き、「鈴木バイオリン」製のウッド・ベース13万円なりを、月々5,000円の割賦で購入していた。

練習を重ねたが、上達にはほど遠かった。聴く方はベースにのめり込むが、弾く方は困難に次ぐ困難で、そのうちその最も大きな弦楽器は、奏でると言うよりは部屋のインテリアのような存在になっていった。

その後、引っ越しの度に友人に、「こんな嵩張るものよく持っているよな」と詰られながらも持ち歩き、今でも保有している。ずっと長いこと手入れをしていないため、いつの間にかブリッジを破損しているので、もう音を出すのは困難だろう。

けれども、四十の手習いをすでに一回りも越えているが、最近無性にこの楽器を弾いてみたいのだ。今度はもう少し精進する(だろう)。そして、しっとりとしたヴォーカルの歌伴を一度でいいからできればどんなにか素敵なのに、などと相変わらず能天気なことを考えている。

 

 

第114回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(3)