第118回:さまよい走る聖火リレー
更新日2008/04/24
「聖火最終ランナー、坂井義則君!」。北出清五郎アナウンサーの発する晴れやかな声とともに、20歳の青年が国立霞ヶ丘競技場の163段の長い階段を上りきり、聖火台に点火した瞬間は、やはり今でもずっと脳裏に残っている。
その数日前、当時長野県の小学校3年生だった私は、小学校の程近くにある、国道20号線を聖火ランナーが走っていくのを目撃している。4年前のこのコラムにも同じことを書いたが、オリンピック年になると無性にこの光景を思い起こすのでご容赦いただきたい。
校長以下、全校生徒で小旗を振り聖火ランナーを見送ったが、とにかく近所の人たちも含め、市民総出の状態で、私が生まれて初めて実感した「国民行事」であった。
今、資料でそのランニング・コースを確認してみると、それは大変限られたものであり、田舎の小3の子どもがそれを目の当たりにできたというのは、大変にラッキーなことだったらしいことがわかる。
それから、10年前の長野冬季オリンピックで再び聖火が長野県を走ったが、この時は正直ほとんど関心がなかった。長野県人は、昔からどうも北と南とで仲がよろしくない。私たち南信の人間にとってみれば、「北の方で何かやっているようだ」ぐらいの思いしかなく、盛り上がらなかったのである。
それはさておき、今度は3回目の聖火の登場である。今回の北京オリンピックの日本で唯一聖火ランナーが走る長野市。そのリレーの出発点である善光寺山が、その任を辞退してきたのは約1週間前の4月18日のことであった。
私は当初、警備上の混乱を避けるためだけのものかと思っていたが、それだけでなく、同じ仏教徒であるチベットの人々への中国の弾圧が、五輪憲章に抵触しないかという提起を含めての辞退と言うことである。
ヨーロッパや、インドなどの聖火リレーへの一連の抗議行動を鑑み、以前から善光寺ではこの問題を継続検討してきたが、17日、寺内での僧侶の幹部会議で意思決定をしたそうだ。会議の際、かなり激しく意見が交わされた模様である。
私は、この決定を支持したいと思う。いろいろな理由があっても、とりあえずの大義のもとに、決まり事を遂行してしまう私たちのファジーな国民性に流されない、しっかりした考えのある行動だと思う。善光寺は4月26日予定の聖火リレーと時を同じくして、チベット暴動による、チベット人、中国人犠牲者の追悼法要を行なうことも発表した。
長野市は、出発地点を移し、厳重な警戒態勢を敷いて聖火リレーを行なうようだが、その光景は44年前の東京オリンピック時とは比べものにならないほど物々しく、形式的なものになるだろう。
今回のように、アテネから開催地までのコースだけでなく、世界中を回るという聖火リレーの方式は、実は前回のアテネ大会で初めて行なわれた。そうしなければ、聖火リレーはギリシア国だけしか走られないことになるから、その必要があった。
それを、従来通り、アテネから開催地北京までだけのコースに戻さずに、世界各都市で聖火リレーをさせるのは、紛れもなく中国の国威高揚意識の現れだろう。「みなさん、今回は中国でオリンピックが開催されるのですぞ」ということを、声高に全世界に広めたいのだろう。
実際には、その目論見が徒(あだ)になった。というよりも、本来のオリンピック憲章に謳われているオリンピック精神(オリンピズム)を遵守しない国内外への中国の姿勢が、各国の批判の対象になり、今回のように表面化したのだろう。
大雑把に言えば、あらゆる意味で、中国はまだオリンピックを開催する準備ができていない国と言えるのではないかと思う。抗議活動が行なわれると思われる国々に「聖火護衛隊」などという連隊を派遣しなければならない事態というのは、それだけで異常なことなのである。
欧米の知識層がとる行動をそのままに評価する気はまったくないが、彼らが今回の大会を大虐殺五輪(Genocide
Olympic)とまで呼称しているのは、それなりの意味があってのことなのだ。
それでも、力ずくで聖火リレーは継承され、北京オリンピックは開催されるのだろう。当の北京市民をはじめとした中国国民には、今回の抗議活動についての報道はシャットアウトされ続けているらしい。
開催されてしまえばそれで良いというものでは決してない。中国のその強引な姿勢が、必ず大きな歪みを生み、いつかは自らの首を絞めることになると思う。
今回、資料を調べていて分かったことだが、古代オリンピックから聖火の概念が復活したのは1928年の第9回アムステルダム大会からだが、その時は聖火リレーというものはなかった。
聖火リレーが初めて行なわれたのは、1936年第11回、ナチス・ドイツの国威高揚のために開かれたベルリン大会のときらしい。今回の一連のできごとと何か因縁めいたものを感じるのは、考えすぎというものか。
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