■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
までのバックナンバー


第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
第109回:ビバ、ハマクラ先生!

■更新予定日:隔週木曜日

第110回:苦手な言葉

更新日2007/12/20


「僕が、『マスターのこだわりの生き様がよく表れた隠れ家的なバー、という言い方がとても苦手ですね』とあるお客さんにお話ししたら、『初めて外からこの店を見たとき、まさにそういうふうに見えたよ』とおっしゃられて、まいってしまいましたよ」。

店で、私がお客さんによく話すフレーズである。実は私が苦手なのは、店がどう見えるかと言う評価のことではなくて、それを表現する言葉たちの方なのだ。「マスターのこだわりの生きざまがよく表された隠れ家的なバー」というのは、どなたかから受けた話ではなく、日頃から、「あっ、ちょっと嫌だなあ」と思う言葉を、私が羅列しただけだ。

こだわり。ここのところ少し下火になったが、一時期は驚くほどよく使われていた言葉だ。こだわりの店、こだわりの味、素材にこだわった商品など。言うまでもなく、本来は些細なことにとらわれる、拘泥する、あるいは難癖をつけるという否定的な意味を持つ言葉だったはずだ。

小さい頃から「いつまでもそんな事にこだわっていないで、もっと大きな目でものをご覧なさい」などと言われて育ってきたから、「妥協なしに追求する」という意味あいの、最近の用法はどうもしっくりこない。馴染まないのだ。

念のため、手元の広辞苑を引いたところ、3番目に挙げられた語義として、「些細な点にまで気を配る。思い入れする。『材料にー・ったパン』」とあった。手元にあるのは「第五版」で、確か「第四版」までは、この語義はなかったはず。

「広辞苑よ、お前もか」というところだが、「言葉は生き物、つねに変遷するものなのです」というステレオタイプ派に、「何をこだわっているの?」とまぜっ返されそうなので、やめておいた方がよいかも知れない(でも、やめたくないけれど)。

生き様。イキザマ。ストレートに言います、下品でいけません。高校生のラグビー選手が、「これが俺の生き様だ」と言って叫んでいるのはまだかわいいけれど、大人の女性が、「やっぱり、私の生き様はこうしかないわけよ」などというのを聞くと、「あらっ」とかなり退いてしまうのだ。

「死に様」「なんだその様は」「様を見ろ」、こんなふうに使われている「様」なのだから、やはり生き様とは言いたくはない。今度は恐る恐る広辞苑を引いてみると、「自分の過ごしてきたぶざまな生き方」の後に、「転じて、人の生き方。『すさまじいー』」…転じてしまうのか、ここでも。もはや、こだわりの生き様の編集者は広辞苑にはいないのかも知れない。

隠れ家的。一時期、男性誌でバーや小粋なレストランなどを紹介するときに、しきりに使われた言葉だ。これもあんまりに紋切り型の言葉で、鼻白んでしまう。第一、雑誌で紹介された瞬間、もう「隠れ家」ではなくなるはずなのに、みんなその記事を読んで隠れにやって来るというのも、不思議な話だ。

みんな、そんなに隠れたいのかなあ。もちろん、雰囲気を優先させた言葉で、誰も本当に隠れられる場所とは思っていないから、「的」なんだろうけれど。でも、本当に隠れたいと思ったとき、人はどこに行くのだろうか。

もう、ほとんど小言幸兵衛のようになってしまっているから、開き直ってついでにもう少し苦手な言葉を書いてみる。

おいしい。「おいしい話」「おいしい思いをする」という使い方。これも、聞きづらい、品のない言葉と思ってしまう人は、もうあまりいないのだろうか。出所は間違いなくウディ・アレン氏を起用した西武百貨店のCMの、糸井重里氏によるコピー「おいしい生活」からだろう。

最初にあの新聞の全面広告を見たときも、何かザラッとした感触で居住まいの悪さを感じた。それが、今や広辞苑に、「都合がよい、もうけになる、の意でも用いる」と書かせてしまっているし、大辞泉、大辞林にいたっては、「好ましい」という字義とも書いている。

今入力しているATOKについている辞書ソフト、明鏡国語辞典では俗語の分類にしているが、ここらへんが適当な着地点だという気がする。

みみざわり。これは今までの言葉とは違って、こういう語法もありかな、と思うことだ。本来は、「耳障り」と書いて、「聞いていやな感じがすること。聞いて気にさわること」(広辞苑)の意味である。ただ、最近は、「耳触り」という漢字を当てて、「聞いたときの感じ」という語義を、大辞泉と大辞林では持たせている。

それは、「聞いたときの感じ、印象」をあらわす適当な言葉が、今までになかったからによるものだろう。目にも「目障り」というのがあるが、こちらは「見た目」という言葉があるので、「目触り」という言葉はいらない。

一方、前出の明鏡国語辞典では、「耳触り」は誤用と指摘している。ちなみに広辞苑には、まだ「耳触り」という言葉は登場しない。次の版からは出てくるかも知れないし、それは認められないと突っぱねるかもわからない。ちょっと楽しみにして待ってみよう。

蛇足ながら、前回の衆議院議員選挙のある保守系議員の選挙ポスターに書かれたマニュフェスト的な文章の中に、「耳障りのよい言葉に踊らされて」とあったが、これはかっこ悪すぎた。けれども、その議員、何とか当選してしまったから、そんなことは意に介しないだろう。

 

 

第110回:楕円球の季節