■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
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第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
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第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう

■更新予定日:隔週木曜日

第109回:ビバ、ハマクラ先生!

更新日2007/12/06


東京オリンピックのあった次の年、私たちの小学校の子どもたちが、学校の行き帰りや休み時間に、みんな好きで歌っていた曲があった。『涙くんさよなら』。歌がはやるということを、おそらく初めて実感したという意味では、私の中ではこれが生まれて最初の流行歌だった。

この歌を歌った坂本九は、当時子どもにとても人気があったが、私がうろ覚えで覚えているのは、外国の人が英語で歌う、『涙くんさよなら』だった気がする。だから、私は長い間、これは外国の曲のカヴァーを日本の歌手が歌っているものだと思っていて、実は浜口庫之助作詞作曲だと知ったのは、大人になってからだった。

今回、このコラムを書くにあたり調べたところ、その外国人歌手はジョニー・ティロットソンという人だと言うことがわかり、もちろん彼の方がハマクラ先生の曲をカヴァーしていたのだ。他にもジャニーズや、和田弘とマヒナスターズも競演していることも分かった。そう言えば、私は坂本九よりもマヒナの歌声の方が記憶に残っている気がする。

みんなととても仲良く、学校が楽しくて涙とは無縁だった私も、この曲がはやった年の翌年の暮れ小学校5年生の3学期、転校という辛い体験が待っていて、その時この曲を一人つぶやくように歌ったのを、痛みを持って思い出す。

“涙くんさよなら さよなら涙くん また会う日まで 君は僕の友だちだ この世は悲しいことだらけ 君なしではとても 生きていけそうもない”

同じ昭和40年(1965年)、小学生にとっては刺激の強すぎるようなヒット曲があった。田代美代子がマヒナスターズの軽快なコーラスをバックに、この上なく甘い声で歌う『愛して愛して愛しちゃったのよ』。

この曲と、翌年の園まりの『逢いたくて逢いたくて』の2曲で、生まれて初めて、私は女の人の色気というのを知って、完全にノックアウトされてしまったのである。

それはさておき、“愛しちゃったのよ 愛しちゃったよお あなただけを 死ぬほどに”という歌詞は、当時あまりに官能的だと感じたが、今にして思えば、本当に人を好きになってしまったとき、ためいきのように出てくる歌詞なのかもわからない。

この間の日曜日、12月2日、ラジオを聴いていたとき、その日が浜口庫之助さんの17回目のご命日だということを知り、かねてから大好きだったハマクラ先生の曲をもう一度ゆっくり聴き直そうと思っている。

中村八大、宮川泰、その後の筒美京平氏らの著名な作曲家たちがが、みんなジャズから音楽に入ってきているのと異なり、ハマクラ先生はハワイアンやラテン音楽がベースになっている人のようだ。だから、前述の2曲の持つある種の「ゆるさ」はそこらあたりから来ていて、私たちの耳に心地よく響くのだろう。

昭和41年(1966年)に出された西郷輝彦の『星のフラメンコ』は、まさにスパニッシュ・サウンドを歌謡曲に取り入れた名曲中の名曲だが、私はその前年に出した『星娘』の方が好きだ。あまり覚えられていないが、これもラテンの香りいっぱいの素敵な曲である。

“星娘ィエイィェイ 星娘ィエイィエイ 星娘 ィエイィエイィエイ ホーホーホー”

その昭和40年から2、3年は、まさにハマクラ先生大活躍の年である。バラが咲いた(マイク真木)、夕陽が泣いている(ザ・スパイダース)、以上昭和41年。夜霧よ今夜もありがとう・粋な別れ(石原裕次郎)、エンピツが一本(坂本九)、花と小父さん(伊東きよ子・植木等競作)、以上昭和42年。まさに、珠玉の名曲たちが煌めいている。

ハマクラ先生は、CM曲でも素晴らしいものを残している。今でもかなり口ずさめるものが多い。『私のカローラ』『小さな瞳 夢見るチョコレート』『彼女は生きている 純生も生きている』『サン サン サンカラー 薔薇 薔薇 薔薇』『ジャル ジャル ジャルパック 楽しさをパッケージ』『みんなの みんなのジョア』・・・懐かしい。

私の、ハマクラ先生ベスト・ソングは、何と言っても高田恭子が昭和44年に歌った『みんな夢の中』である。実によい曲なのだ。

“1 恋はみじかい 夢のようなものだけど 女心は 夢をみるのが好きなの 
夢の口づけ 夢の涙 喜びも悲しみも みんな夢の中  

 2 やさしい言葉で 夢がはじまったのね いとしい人を 夢でつかまえたのね       
 身も心も あげてしまったけど なんで惜しかろ どうせ夢だもの

 3 冷たい言葉で 暗くなった夢の中 みえない姿を 追いかけてゆく私
 泣かないで なげかないで 消えていった面影も みんな夢の中”

思わず全コーラス書いてしまったが、1950年代生まれまでの方なら、覚えていらっしゃると思う。高田恭子の伸びやかだけれども、少し揺れているような歌い方が、あの優しい旋律にとても合っていた。

今、こうして歌詞を並べてみると、あのメロディーとともに私たちに与えていたのは「静かな諦めの感覚」だったような気がする。限りなく美しい歌であると同時に、底のない哀しみを歌った歌なのかも知れない。

「若いの、ようやくわかり始めてきたようだな。でも、まだまだだけどな」、どこからか、ギターを抱え、帽子を被った優しいハマクラ先生の声が聞こえてきたような、一瞬そんな気がした。

 

 

第109回:苦手な言葉