第73回:アーティストの石岡瑛子さんのこと
夏の間、散歩代わりに200~300メートル沖にある岩まで泳ぐのを日課にしていた。地中海の水は真夏でも冷たい。身震いするような冷たい海に飛び込むと、ホンの2、3分で体が水温に馴染み、心地良く感じられるようになる。
元来、私は誰かれなく気楽に挨拶をする傾向がある。それが狭い島の社会に住んで増長されたのかもしれない。何分にもイビサに住む東洋人は当時非常に少なかったし、接客商売をしていると、向こうさんは珍しい生物のように私の顔を覚えるが、私の方は何百人という顔だけは知っているが、御仁の名前やどのような関係で知り合ったかなど、覚えきれるわけがない。勢い、記憶の片隅にホンの少しでもこびりついている顔に出くわしたら、誰彼なく挨拶することになる。
イビサでついた習慣が抜け切らず、マドリッドのチャマルティン駅の構内で、どこかで見た、知った顔のオヤジさんに「ブエノス・ディアス(こんにちは)」と、イビサ・スタイルで通りすがりに気軽に挨拶したところ、そのオヤジさんはギョッとした顔で見返し、「オラ、ケタル? ムイ・ブエノス・ディアス」と応えたのだ。絶対にどこかで会ったことがある顔だとの確信はあったのだが、思い出せないまま数日経ってから、友人の家でテレビのニュースを観ていたら、彼は天気予報のオヤジさんと判明したのだった。
その日も、海から上がって、アパートまでの短い距離の足を刺すような尖った岩を登っていく途中で、東洋人の女性が一人で日光浴をしていたのに出くわした。というより、私の方が彼女が裸で寝そべっているすぐ脇を通ったのだ。まだ石ころビーチに人影のない朝早くだった。
「ブエノス・ディアス」
そして、どうも日本人のようなので、
「こんにちは日本の方ですか?」と声を掛けたのだ。
彼女は眩しそうに私の方へ顔を向け、
「アラッ、日本人? 日本語が上手なフィリピン人かと思ったわ」
「真っ黒に日焼けしてるから、よく間違われるんです。かなりスペイン化しているけど、でもまだどうにか日本人ですよ」と、私。
落ち着いた、独立した女性だった。ツアー、団体で海外旅行に出かける日本人はホテルのロビーや土産物屋さんで仲間と一緒にいる時、まわりを気にせず、騒ぎ過ぎるくせに、一人になると途端に萎縮する傾向がある。その年齢不詳の美しい女性にはそんなところが全くなく、裸でいることを恥ずかしがりもせず、極自然態で私に対応したのだった。
「よかったら、コーヒーでも飲みませんか?」と気軽に誘ってみたところ、全く遠慮せず私のアパートについて来たのだった。私は手回しのコーヒーグラインダーで豆を挽き、スペイン、地中海の国々で一般的な二段式になっているアルミのカフェテラでコーヒーを淹れた。その間、彼女はテラスに出て、「こんな素晴らしいところに棲めるなんて、幸運ね…」と呟いたり、本棚を覗いたりしていた。
そして、「アラ、私の本があるわ…」と取り出したのだった。それはリチャード・バックの『かもめのジョナサン』の日本語訳で、確か五木寛之が訳し、印象的な写真をふんだんに使った大人の絵本のような仕上げになっているものだった。その本をプロデュースしたのが彼女だと言うのだ。
その時、その女性が石岡瑛子さんであることを知った。
「こんなところで、私の本に出会うなんて、光栄だわ…」と無闇に喜んでいた。
日本で貧乏学生だった私は、彼女のような大人の女性と出会ったことがなかったし、大学の途中で海外へバックパッカー族として出てしまったので、ますます日本人の女性と知り合うチャンスがなくなった。私は心底から、日本にもこんな女性がいたのかと驚き、感動さえした。
アートディレクター、デザイナー、石岡瑛子(2012年没)
ドミニク・サンダ シネアルバム(1975年刊)
石岡さんは、その当時、私が大ファンだったフランス女優のドミニク・サンダ(Dominique Sanda)をコマーシャルに使う仕事でフランスに来て、そのついでに短い休暇をイビサで過ごすことにしたと語っていた。
ドミニク・サンダはフランスの片田舎の古い農家に住んでいて、自らの手で紅茶を淹れてくれたこと、これからニューヨークへ飛び事務所探しをしなければならないこと、東京の不動産がキチガイじみた値上がりをしていて、私のワンルームアパートより狭いところでウン千万も払っていることなどなど、静かな声で話すのだった。
『カサ・デ・バンブー』の仕込み、準備があるので、早々に石岡さんとの会話を打ち切らなければならなかったのをとても残念に思った。
石岡さんはイビサ滞在中、何度か『カサ・デ・バンブー』と私のアパートに来てくれた。私は彼女の仕事や何をしている人なのかはっきり分からなかった。本のデザインやプロデュースをしているから、グラフィックデザイナーかなと思っていたら、コマーシャルフィルムのプロデューサーでもあるみたいだし、ファッション関係の仕事もしているようだった。わたしの狭いコマーシャル、ファッション、デザイン関係の範疇に収まりきらない仕事をしているようだった。
私のアパートは2階にあり、ドイツ人のギュンターが3階、大家のゴメスさんは4階に住んでいた。ギュンターもゴメスさんも早起きで、春から秋の終わりにかけての天気の良い日は、その期間まず雨は降らないし晴天続きだから、毎日ということになるが、テラスに出て、海岸、海を眺めており、私たちはイタズラに見張りが二人もいる、安全なところに住んでいると言っていたものだ。そのギュンターが『カサ・デ・バンブー』にやってきて、「お前も、やっとオンナをアパートに引き込むことに成功したな~」と言ったのには驚いてしまった。
どうも、イビサの通念、常識では、女性が一人で、男一人のアパートに出入りすれば、当然何かがあることになるらしいのだ。私に全くそんな意図がなく、危惧を抱かせるモノが私にないことを石岡さんは感じ取っていたのかもしれない。私も石岡さんの職業人としての魅力、もちろん彼女の美しさに惹かれてはいたが、恋愛感情は露ほども湧かなかった。
それから10年以上経て、石岡さんが日本を代表する国際的なアーティストであることを知った。イビサ時代、それからのヨットでの生活、そして今、山の家でと、私はテレビというモノを持ったことがなく、ラジオも聞かないから、どこかで偶然観たアカデミー賞の授賞式で石岡瑛子さんがフランシス・フォード・コッポラ(Francis Ford Coppola)の映画の服飾デザインを担当し、オスカーを受賞した姿を目にした時は驚いてしまった。その後、さらに10年ほど経った時だろうか、姉が几帳面に送ってくれる『文芸春秋』で、彼女が膵臓癌で亡くなったことを知った。
『実録!スーパー映画人』
編集:デイヴィッド・チェル(アスキー;1987年刊)
私の義理の妹夫妻はシアトルに住んでいる。義理の妹の夫デイヴィッドも、義理の弟になるのだろうか、マイクロソフトのエンジニアだが、禅や俳句に凝り、日本庭園にも造詣が深い。壁一面を日本関係の本で埋めている。その中に『スーパー映画人』と日本語でタイトルされた本があり、何気なく引き抜いてみたところ、デイヴィッドが英語で書いた本の日本語訳だった。
彼の本は英語、イタリア語、日本語で出版されていた。そのこと自体も驚きだったが、『スーパー映画人』の中に石岡瑛子さんが取り上げられていたのには唖然とした。石岡さんとのインタビューは東京で、彼女の忙しいスケジュールの合間を縫うように3、4日かけて行われたとデイヴィッドは懐かしむように言い、「とても魅力的な女性だった」と、はにかむように付け加えた。
数年経ずして、そのデイヴィッドも癌で他界した。
-…つづく
第74回:コーベルさんのこと その1
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