第65回:サンドラとその家族 その1
『カサ・デ・バンブー』があるロスモリーノス地区は、イビサの中心街まで徒歩で15分、そんな至近距離にありながら、短いトンネルを抜けただけで街の喧騒から逃れ、城壁が外海に突き出ている海岸に出ることができるという地の利があった。徒歩で街と海の両方に行くことができるような地区は他にないこともあり、一度この地区にマンション、アパート、家を持った者は、ここロスモリーノスから離れようとしなかった。それで顔ぶれが変わらないのだった。
『カサ・デ・バンブー』の前の緩やかな坂に沿って階段状に建てられたロセージョ・アパートはバカンス向きの賃貸物件だ。イースターから10月の終わりまでは30戸もあるアパートが常連で占められ、まず一元さんが入り込む隙もない盛況だった。
そんなロセージョ・バカンスハウスの常連組に、アントンとジョランダがいた。彼らは決まりきったように同じユニットに9月の1ヵ月、セマナサンタ(イースター)の2週間、それにクリスマスには着たり来なかったりだったが、滞在するのが常だった。
アントンはドイツ人だが、スペインで生まれ育った。ドイツ語、英語、スペイン語をこなし、翻訳を職にしていた。ジョランダは丸顔の美人で、彼女の父親はかなり高名な闘牛士だった。何でも昔勇名を馳せたエル・コルドベスとマノ・ア・マノ(mano a mano;直接対決、サシの勝負;通常、闘牛は3人の闘牛士が牛を2頭づつ計6頭処理するのだが、二人の闘牛士が交代で3頭づつ相手にすることを言う)をやったというのが自慢だと言うことだった。これは、情報センター、ギュンターからの又聞きだが…。私がカフェテリアを開いた当時、アントンとジョランダカップルは30歳前後だったと思う。
彼らにはサンドラという娘がいた。私はサンドラが4、5歳の時、まだビキニの水着の胸の方は着ず、下の方だけ付けて歩きまわっていた時から知っている。サンドラがそんな小さい時から、独立した精神というのだろうか、一人でどこへでも出かけ、歩き回る傾向があった。
サンドラが石を拾ったり、波打ち際の小さな生物を見ていたり、一人で佇んでいる風景は珍しくなかった。何かビーチで見つけると、私に見せるために『カサ・デ・バンブー』や私のアパートにやってくるのだった。サンドラの見つけた宝物は、波にもまれ角がすっかり取れたガラスのカケラであったり、いろんな貝殻や半分壊れたウニの殻であったりだった。
私のところに長居すると、しばらくしてジョランダが探しに来るのだった。どうもサンドラが見えなくなったら、私のところだという不文律があるらしかった。そのうち、学校の宿題のようなノートを持ち込み、私に“世界で一番長い川”はどこか知っているかとか、さまざまな問題を投げかけてくるようになった。だが、夏のシーズンで私が忙しい時には、空いているテーブルに一人でチョコンと座り、本やノートを広げ、私の手が空くのを待っており、決して邪魔になるようなことがなかった。
私は店のお客さんを、彼らの国、街に訪ね、会うことをしなかったのだが、イギリス人カップル、ピーターとティンカ、それにアントンとジョランダは例外的に彼らの町で会い、食事を共にした。アントンとジョランダはマドリッドのレティロ公園近くの古く、閑静なピソ(アパート、マンション)に住んでいた。マドリッド市内では中流以上の地区と言っていいかと思う。
今ではほとんどなくなった蛇腹ドアの旧式エレベーター(写真は参考)
彼らのピソは古く、旧式な鉄格子が蛇腹になっているエレーベーターのドアをガチャガチャ言わせながら開け閉めするようなところだった。4階にある彼らのフラットは広く、そして何よりも天井が驚くほど高かった。大きく頑丈な入口ドアから一歩足を踏み入れると、古いフランス映画の舞台に舞い込んだような気持ちにさせられた。家具、壁にかかった額など、どれもイワクありげに古く、選び抜かれていた。アントンはお爺さんの代からのモノを引き受けただけだと言っていた。
アントンの書斎は小さな図書館と呼んだ方が当たっているだろうか、その中央に分厚い上板のデスク、そしてタイプライターが2台、新聞、雑誌が乱雑に置かれていた。そして、ジョランダのアトリエ?と呼んでいる部屋に彼女の父親、闘牛のポスターが貼ってあった。元々のカラー印刷が悪かったのか、年代と共に色が薄れてきたのか、古色蒼然とした、マドリッドのサン・イシドロのお祭り(この間、1ヵ月近く連日闘牛が開催される)の時のものだった。
サン・イシドロ祭りの際の闘牛ポスター(参考)
画像クリック→天才と呼ばれたエル・コルドベス
窓際に頑丈なイーグルを立て、制作に励んでいる様子が伺えた。描き終わった絵が十数枚が床に置かれ壁に立てかけてあり、壁にも自分で会心の作とでも思った作品が架かっていた。その絵の大半はイビサの風景画だった。それはいいのだが、幼児画というのか、下手というのか、線、輪郭も自信なげに弱々しく、色たるやチューブから搾り出した絵の具をそのまま使ったのではないかと思わせるほど原色が塗りたくられているのだった。
幼児園の子供の塗り絵を思わせた。私に絵画を評する能力、観る目があるとは思わないが、よくぞこんな絵を何年も何十枚と描き続けていたものだと思い、お世辞にも褒め言葉が出てこない自分に気がついたのだった。一見した時、実はサンドラのイタズラ描きだと思ったのだ。
もっとも、熱帯ジャングルを絵本の挿絵のごとく描いたルソーのような絵描きもいるのだから、ド素人の私がドウノコウノ言えるスジのものでないのは承知の上だ。アトリエの壁にギャラリーのポスターが張ってあった。それは、私ですら知っているセラーノ通り(Calle de Serrano,
Madrid)に店を構えている有名な画廊のもので、そこにジョランダの名前があったのだ。
日本人の画家や画家の卵たちにとって、その画廊で個展を開くのは、夢のまた夢、まさに垂涎の的であり、岡本太郎でさえ、その画廊に蹴られたという噂だった。
素朴な幼児画というのが一つの分野であり、ジョランダの絵にはそれなりのマーケットがあるらしいのだ。私は改めて自分に絵画を観る目がないことを思い知らされたのだった。
サンドラは私たち大人の会話に決して口を挟まなかったが、一言も聞き逃すまいと聞き耳を立てているのだった。
小学生になったサンドラ(冬のイビサの自宅アパート前の海岸にて)
-…つづく
第66回:サンドラとその家族 その2
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