第434回:流行り歌に寄せて No.234 「京都の恋」~昭和45年(1970年)
京都を訪れたことは、今まで5回ほどしかない。日本人の回数の平均というものがあるかどうかはわからないが、やはり少ない方だと思う。
最初は小学校の修学旅行。次は20歳過ぎのジャズ喫茶廻り、20歳代中頃の拙い日帰りデート、20歳代後期の仕事での出張、30歳代後期の社内の有志での旅行である。
出張の時に泊まらせていただいた大先輩のご自宅は、まさにうなぎの寝床のごとく、縦長に6、7部屋が続いていた。途中、家を横切って流れる細い小川を越えながら、一番奥の書庫に至る。書庫には夥しい数の書物が並んでいた。彼は京大文学部出身の歴史研究家であった。
考えてみれば、わたしはを40歳を越えてからは京都を訪れていない。あまり行きたいという気持ちになれないのは、やはり京都に住む方々の矜恃のようなものに気後れしてしまい、何となく面倒になっているのだろう。
但し、この後生涯を通して取り組みたい、自分なりの小さな作業には、彼の地がキーになりそうなので、これからは何回か訪れることになると思う。京都さん、どうぞお手柔らかにといったところである。
さて、京都を歌った曲。ざっと思いつくのは、デューク・エイセスの『女ひとり』、チェリッシュの『なのにあなたは京都へゆくの』、研ナオコ『京都の女の子』、小柳ルミ子の『京のにわか雨』、かぐや姫の『加茂の流れに』、そして渚ゆう子の今回の曲と、次の作品『京都慕情』くらいか。
東京、大阪に比べれば当然かもしれないが、長崎を歌った曲よりも少ない気がする。曲を作る方々が、まさか私のように気後れしているとは思えないが。
この曲の作曲がザ・ベンチャーズなのはあまりにも有名な話だが、今回調べていて驚いたことは、この曲は1970年の大阪万博を記念して作られたということだった。
日本盤の『京都の恋』の英語題は “KYOTO DOLL”で、これはこれで東洋趣味の感じが表れているが、アメリカ盤の題は、そのまま “EXPO’70”である。
『ダイアモンド・ヘッド』『十番街の殺人』『パイプライン』『キャラバン』ほか、実に多くのザ・ベンチャーズの曲が日本でもたいへんに愛されている。それに応えてなのか、彼らは多くの曲を日本人の歌手たちに提供している。
和泉雅子と山内賢のデュエット曲『二人の銀座』、奥村チヨの『北国の青い空』、欧陽菲菲の『雨の御堂筋』、牧場ユミの『回転木馬』(デビュー前の山口百恵が『スター誕生』で歌った曲)、そして渚ゆう子の京都の二作品、『長崎慕情』などがある。
「京都の恋」 林春生:作詞 ザ・ベンチャーズ:作曲 川口真:編曲 渚ゆう子:歌
風の噂を信じて 今日からは
あなたと別れ 傷ついて
旅に出かけて 来たの
わたしの心に 鐘が鳴る
白い京都に 雨が降る
後姿のあの人は
今は帰らぬ遠い人
涙みせたくないの 今日からは
一度離れた恋なんか
二度とはしたくない
このまま死んでしまいたい
白い京都につつまれて
恋によごれた女は 明日から
白い京都の片隅に
想い出をすてるの
想い出をすてるの
渚ゆう子は昭和20年(1945年)11月8日、終戦直後の大阪の浪速区で生まれた。母親が沖縄、父親が京都府出身で、小さい頃から沖縄民謡と琉球舞踏をしっかり教えられていた。私の知り合いにも何人かいるが、沖縄民謡を習い続けた人は、独特の節回しを身体が覚えているようである。
昭和39年、18歳で『久保真鶴』の芸名で芸能界に入り、翌年上京し浜口庫之助に師事してハワイアンの教えを請う。昭和41年、渚ゆう子に芸名を変えた。
レコードデビューは、翌昭和42年に、ハニーアイランダースのスチール・ギタリスト大橋節夫作曲のハワイアン歌謡『早くキスして』だったが、ヒット曲になることはなく、大阪を中心に、下積みの生活が続いた。
そして、雌伏期間を経たのち、再び上京し『京都の恋』で、85万枚セールスの大ブレイクとなる。
続く『京都慕情』も大ヒットし、昭和46年の第22回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。同年に『さいはて慕情』で第13回日本レコード大賞歌唱賞も受賞している。
『京都慕情』『長崎慕情』は先述の通り、ザ・ベンチャーズの作曲だが、『さいはて慕情』は筒美京平の作曲。この曲の最後に聞こえる、北海道で実際に録音してきたという蒸気機関車の汽笛と走行音が、たいへん印象的である。
作曲者は違うが、作詞は3曲とも林春生。私は勝手に『慕情三部作』と名付けて、お気に入りの曲のリストに入れている。
渚ゆう子は、『京都の恋』の曲をもらったときには、結婚を考えている恋人がいたという。だから、これが自分の歌では最後、お嫁に行く前の想い出にしようという思いでレコーディングに臨んだそうである。
ところが、予想をはるか超えたヒットに生活が一変、その人とは徐々に疎遠になり、ついには別れてしまう。大きなブームが去った後に、何度か見合いをしたが良縁とはならなかった。
その恋人と別れてから38年も経った平成20年(2008年)、二人は再会を果たした。そして、彼は「そろそろいいかなと思って」と言いプロポーズをしたという。
渚ゆう子は、静かにそれを受けた。いろいろな愛の形があるものだなと、改めて思う。
第435回:流行り歌に寄せて No.235 「笑って許して」~昭和45年(1970年)
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