第723回:タラコ色の巣 - 山陰本線 下関(幡生)~小串 -
JR西日本は倹約家だ。国鉄時代の古い車両をだいじに使う。たとえば私が乗った益田行きのディーゼルカーは国鉄時代に活躍したキハ40形だ。製造番号は2002。Wikipediaによると、1979年に作られたというから、製造後40年くらい経っている。外観も国鉄時代の朱色のままだ。この色と、やや丸みのあるカドの取れた車体から「タラコ色」と呼ばれている。
キハ40形は国鉄時代に全国各地で分布していた。JRに変わったとき、ほぼ同じ地域で引き継がれた。リフォームや塗装の修繕にともなって、独自の塗装を施された仲間も多いし、観光列車に改造された仲間もいる。ここにいるキハ40形も内外装をリフォーム済み。たとえば車体側面の行先表示はLCDになっている。しかし、窓の下には国鉄時代に使っていたサボ受けも残っている。客室の窓の下も灰皿があったはずだけど、灰皿の跡は残っておらず、ネジの穴を埋めた形跡もない。つまり、内壁は全面的に張り替えられたわけだ。座席もモケットが張り替えられて清潔感がある。居心地は国鉄時代より格段に良くなった。
LCDとサボ受けが同居する
05時39分。タラコ色のディーゼルカーはゆっくりと走り出した。エンジン音は大きいけれど前後の揺れは小さい。まるで寝た子を起こさないような心配りである。2両編成、1両に付き3人ほど。列車が進み、プラットホームを離れると車内放送があった。長門市で後ろの車両を切り離してワンマン運転になるという。車窓はまだ暗く、室内の風景が窓に映り、そこに青い景色が重なっている。濡れた街はひっそりと眠っていた。
下関駅構内の線路群が複線に集束して、また線路が増殖する。幡生駅。ここまでが山陽本線だ。機関車とコンテナ貨車が停まっている。関門トンネルを控えて、貨物列車の機関車交換と発車待ちをする場所だ。山陽本線を走り抜けた列車たちが、ここで待機し、関門トンネルの電車運行の隙間を見つけて次々に送り出される。逆方向も同様で、九州からやってきた貨物列車が、山陽本線の線路が空くまでこの駅で待機する。
まだ青い車窓
幡生は鉄道にとって、いや、日本の物流にとって重要な駅だけど、乗客は2人だけだ。早朝の朝の下り方向だからこんなものかな。幡生駅は2面4線で、山陰本線が内側の2本、山陽本線が外側の2本を使っている。同じ方向の列車を同じプラットホームで乗り換えられる仕組みだ。ただし分岐駅でこれをやると、山陰本線は山陽本線の線路を横切る必要がある。どんな分岐方法をするかと思ったら、立体交差だった。山陽本線の線路が勾配を上って、こちらの線路をまたいで右に逸れていく。山陰本線の運行本数にしては贅沢な設備だと思うけれど、列車が多かった時代もあって、その頃の産物だろう。
雨天の車窓で夜が明ける
幡生駅の次は綾羅木駅。直感的にいい名前だと思う。なにか物語がありそうな、歴史上の縁がありそうな。しかし由来は諸説あって決定的なものはないらしい。周りは住宅街で下関への通勤圏といったところ。山陽新幹線の新下関駅は下関駅よりこちらの方が近い。クルマで10分、徒歩35分。これだけ人が住んでいて、なぜ列車は少ないか。下関行きは7時台に3本、8時台に2本。10分から15分間隔で列車を走らせても良さそうな街並みである。ただし単線ですれ違い設備はない。この運行本数が設備的に限界かもしれない。
山陰本線は本線と名乗るくらいの幹線鉄道だけど、山口県と島根県のほとんどの区間は単線非電化だ。JR北海道の根室本線と同様に「長大なローカル線」である。次の梶栗郷台地でおばあさんが1人降りていく。病院に行くには早い。夜勤明けだろうか。都会の電車に乗っていると思いが及ばないけれど、ローカル線に乗ると人々の動きが気になる。この地域の生活リズムはどうなってるのか。なぜ気になるかと言えば、人の姿が珍しく、目立つからだ。
しばらく住宅街が続いた。中国地方は山ばかりという印象だけど、沿岸部にはまとまった平野部もあり、山と海の両方からいいとこ取りできる。下関付近も恵まれた土地だ。その平野部の端っこに近づき、右側の車窓に山が近づき、左側の車窓に海が見えた。老人ホームに灯り。05時56分。福江駅着。静かに到着し、静かに発車する。このあたりは畑も多い。そして列車はトンネルに入った。ここから山陰本線らしい景色になるのかな、と思う。
一番列車同士の進路交換
私にとって山陰本線らしさとは、入江に街があって駅があり、トンネルがあって、また入江の駅でトンネル……という繰り返しだ。これはいままで乗ってきた豊岡~益田間に多く分布するパターンだ。これから乗る区間の地図を見ても似ているな、という予感があった。しかし吉見駅付近は入江ではなく扇状地の広さがある。山陰本線らしさはまだかな。いやこれも山陰本線だ。先入観で決めつけてはいけないか。
内陸部に入った
吉見駅ではしばらく停まり、列車交換があった。相手は上り1番列車、小串発下関行き。あちらもキハ40形の2両だ。乗客は数人。早朝の列車にも需要がある。向こうは上りだから、この先で乗る人も多いだろう。こちらはどうだろう。上り列車の送り込みだけなら益田まで行かなくてもいいし、きっとどこかで通学の需要があるはずだ。いやまて、今日は日曜日か。なるほど、お客さんが少ないわけだ。
中国山地が迫る
吉見駅を出発すると、海が見えていた左側の車窓にも山が現れた。内陸部を走るようだ。地図を見ると、盆地の連続を飛び石のようにたどって小串へ向かう。直線的な経路になっている。そして谷が終わったところが黒井村駅。村といえども建物が多く、コンビニもある。黒井村というより黒井町にしてあげたい。村とは何か、町とは何かをぼんやりと考えて、やめた。黒井村駅は黒井村が由来だけど、いまは市町村合併で下関市の一部になっている。
駅名に残る「村」
川棚温泉駅に着く。車窓左側のプラットホームは使われていないようで、庭園が造られていた。庭園の向こうは畑が広がっている。周辺は広々としている。谷間を通り抜けたらしい。線路は直線、プラットホームは右側だけ。こちら側は人家が多く、賑やかだ。駅周辺が温泉街というわけではなさそうで、送迎バスが来るくらいだろうか。
川棚温泉の先は田畑が続き、しかしすぐ建物が増え始めた。次は小串。山陰本線の区間列車が折り返す駅、ということは、それなりに大きな町があると予想する。そのとおりで、まず左手に「シーサット」という看板の白い工場が現れた。シンプルで清潔感のある建物。電子部品工場かと思って調べたら、水産加工の会社だった。トラフグの鍋セットなどを作っているらしい。魚介が苦手な私には縁がないけれど、そういえば下関は「ふく」の町だった。
その先は戸建て住宅がゆったりと立ち並ぶ。シーサットの従業員かな。食事は魚介系だろうなあ、などとぼんやり眺めているうちに、小串に着いた。下関駅を出発してから40分ほど経っていた。ここまで車窓に飽きることなし。6分停車との車内放送があったので、駅舎を見に行こう。プラットホームに降りると運転士さんも降りてくる。おはようございます、と挨拶を交した後、彼は足早にトイレへ。この先も乗務するのだろうか。ここで終わりだけど我慢していたのか。
キハ40形の巣、小串駅
プラットホームに降りて見渡すと、キハ40形がたくさん並んでいた。すべてタラコ色。まるでキハ40形の巣。昭和の旅にタイムスリップしたようだ。なるほど、ここは山陰本線の西端区間の車両基地も兼ねているようだ。道理で小串発や小串行きの列車があるわけだ。去年、山陰本線の長門市駅で出雲市方面に向かおうとしたら、列車が遅延して日程が崩れた。そのときに乗る予定だった列車が小串発で、反対方向へ向かう列車も小串行きだった。
木造のかわいい駅舎
キハ40が並ぶ様子は壮観だ。しばらくカメラを構えた。そして駅舎を見に外に出る。小さな木造駅舎、出入り口の上に駅名看板、それを風雨から守るようなドーム形の屋根がある。1914年に長州鉄道が下関付近からここまで開業し、後に幡生から小串までが山陰本線に組み入れられた。この駅は当時のままたろうか。
ピーヒョロロロロ、トンビが鳴いた。見上げれば、周回する鳥がたくさんいる。近くに港があるらしい。
トンビがくるりと輪を描いている
-…つづく
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