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■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から

第658回:エルサルバドルの悲劇

更新日2020/05/21


もう、元というべきですが、私が働いていた大学の音楽教授、ヴァイオリンと指揮を教えていたカルロスさんは、エルサルバドル共和国(República de El Salvador)の人です。とても情熱的で、オーケストラの指揮をする時、指揮棒を譜面台にぶつけて折ってしまったり、倒したりで、カルロス教授の近くに陣取っている、第一ヴァイオリン奏者は命懸けではないのかと、気を遣ったものです。彼の家族は皆音楽家で、母親の誕生日には故郷に帰って4人兄弟で小さな演奏会を催すのが慣わしになっていると言っていました。
 
カルロス教授は若い頃、仙台のオーケストラに在籍していたこともあり、私たちがスペイン語を話せることもあって、彼の家に呼ばれたり、彼らを呼んだり、とても親しくなりました。仕舞には共同でエルサルバドルに別荘を買わないかと持ち掛けられるほどになりました。

なんでも、アメリカ人、カナダ人などの外国人が引退後の住まいとして開発したラ・リベルタス県の太平洋に面したリゾートがバカ安値で売りに出ており、彼の兄弟も一軒購入しており、リゾートは塀で囲まれ、セキュリティゲートには24時間警備員が詰めている、リゾート内にも海岸にも監視員が回っているので完璧な警備体制だ、サンサルバドル(首都です)から車でリゾートに入ってしまえば、別天地だ…と、盛んに誘惑するのです。

南海のリゾートを絵に描いたようなカタログを見せられ、私にとっては超豪華なユニットの写真に、エッ、これがこの値段で買えるの…と、私たちでも楽々払える金額だったので、心が動いたことは認めなければなりません。しかし、私たちがどこか外国でなくても、他の町や村に住むのは、その地元の人たちの中で暮らしたいからで、いくら安全だからといって、アメリカ人、カナダ人、ヨーロッパ人だけが住む、地元の人が足を全く踏み入れることができない収容所に、たとえそれが豪華で便利にできていても、住んでみたいとは思いません。

ある国に行ったり、住んだりするのは、やはりその国の人たちと係わらなければ意味がないとまで思うのです。朝市に出かけ、お百姓さんが道路脇に広げた野菜や果物を吟味し、漁師が朝早く獲ってきた魚を女将さんが売るのを眺め、パン焼き釜がカウンターの後ろにデンと腰を据え、焼き上がりのパンを売るパン屋さんがあり、市場で働く人たちが出入りするカフェなどで、地元流に淹れたコーヒーを飲んだりできなかったたら、その国に住む価値がないとさえ思うのです。

カルロス教授たち(ピアニストの奥さんアンドレアと娘さん二人)は、オルガンとハープシコードの先生、フィリッペを誘い込み、リゾート・コンドミニアムを購入しました。

その数年後、ダラスの飛行場で偶然彼に出会ったのです。私たちは日本へ、彼らはエルサルバドルの別荘へ行くところでした。カルロス教授は今の状況では奥さんや娘たちの安全を考えると、リゾートでさえも使えない。今回で、しばらく別荘仕舞いをしてくるつもりだ、エルサルバドルは酷いことになっている、政府も警察もない、ギャングが牛耳る国になってしまった。こんな状態がいつまでも続くとは思わないが、国が落ち着くまで、故郷には帰らないつもりだ、と言うのでした。

安い物には安く売る理由があるということでしょうか、エルサルバドルをはじめ中南米の政情に敏感な北アメリカ、ヨーロッパ人があんなところには危なくて住めないと叩き値でリゾートを売り出し、それをカルロス教授たちが買ったことのようです。

エルサルバドルは人口640万人ほどの小さな国です。それなのに、アメリカに移住した人数はトップのメキシコ、プエルトリコ(アメリカ領ですが)、キューバに次いで多く140万人もいます。そのうち約50万人は不法滞在と見られています。

アメリカがエルサルバドル人を受け入れていたのは、罪の意識があったからでしょう。エルサルバドルの悲惨な市民戦争(1980年~1992年)で、農民を背景にした左翼系のゲリラ運動を抑えるため、軍部と結び付いたエリートのお金持ち政権をアメリカが支持し、CIAを通して大量の武器、そして対ゲリラ・トレーニングを提供してきました。市民戦争で7万5,000人が死亡し、8,000人が行方不明、100万人が国を脱出しました。

市民戦争が一応政府側の勝利で終結した後も混乱が続き、それに乗じた二つのギャンググループ、“MS-13”と“18-Street”が市民を巻き込んだ無差別の殺し合い抗争を重ねています。近年、ベネズエラの政情不安と経済壊滅で、10万人当たりの殺人数を抜かれましたが、エルサルバドルはそれまで殺人率トップの座を保持していました。

2017年の統計では、ベネズエラが人口10万人当たり89人殺され、エルサルバドルは2位に落ち61人でした。市民戦争の間のデータはありませんが、1995年に戦争が終わった時には人口10万人当たり139人でしたから、少しは減る傾向にあるのかもしれません。それにしても、アメリカでさえ5.3人、カナダでは1.8人の殺人率ですから、61人はとんでもなく大きな数字なのです。

そして、殺人率の高い国はすべてと言いたくなるほど中南米の国々なのです。ホンデュラス、ベリーズ、グアテマラ、メキシコ、コスタリカ、ニカラグア、パナマ、それにカリブの島国ドミニカ共和国、南米のコロンビア、ブラジルが頑張っています。

そんな危なっかしい国でも潰れないのは、海外からの送金があるからです。アメリカの下町に“Western Union”という看板をよく見かけます。銀行でもないし、“UPS”や“FedEx”などの宅急便でもなく、小さな窓口だけの店構えで海外送金受付などと書いてあります。なんだか、こんな事務所を信用してもいいのかしらと思わせますが、案外うまく機能し、繁盛しているようなのです。そこから、どうにかアメリカに辿り着き、仕事にありついた外国人労働者が、国元へ送金するのです。2017年のアメリカからエルサルバドルへの送金総額は30億ドルに及びます。それはエルサルバドルのGNPの18%にもなります。

エルサルバドルからアメリカに逃げる、移住するといっても中途半端な距離ではありません。北に接しているグアテマラからでも、メキシコを縦に、南北に2,400マイル(4,000キロ近く)もあります。旧約聖書にある出エジプト記、ユダヤ人がエジプトからシナイ半島に抜けた説話など、子供の遠足に思えるほどです。おまけに、モーゼの一念で、神様が紅海を割って、彼らを助けてくれたような奇跡はどこの川にも起こらず、アメリカとメキシコの国境を流れるリオグランデまで辿り着きながらも、途中で力尽き、溺れ、流されてしまう難民は数知れずいるです。

国境に着いても、トランプ大統領は5,000人の国境警備隊を増強し、メキシコ側に送り返すか、アメリカへの入国を許さない体勢を固めています。すでにアメリカに住んでいる“不法滞在者”も強制送還処置をとり始めました。ところが、第一陣でエルサルバドルに送り返された、280余人の内、200人近くが3ヵ月以内に殺されているのです。

こんな事実を突きつけられると、エゴが先に出てしまい、“ウチのダンナさんの国でなくてよかった、彼の家族は皆元気に暮らすことができてよかった…”と思ってしまいます。理屈としては自国から逃げずに踏み留まって、自分の国を築き上げるのがスジなんでしょうけど、今、世界中に渦巻いている難民問題はそんな安易なレベルではありません。

エルサルバドル人、カルロス先生と彼の家族がいたので、私の低い次元での人道主義がくすぐられただけなのでしょうか、このように故郷を失くした人々のことを思うと、私自身、どうしたらいいのか分からないのです。 

どうも、このコラムにしては大きすぎ、重苦しいテーマになってしまい、とりとめもなく書いてしまいました。



-…つづく

 

 

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Grace Joy
(グレース・ジョイ)
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中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。

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