第663回:婆さん、邪魔 - 坂本ケーブル-
京阪電鉄石山坂本線の坂本駅を降りて、比叡山ケーブルの坂本駅までは約1km。歩行速度は時速4kmというから、15分から20分くらいの散歩だ。さあ行こうか、と思ったら、目の前にケーブル坂本行きのバスが停まっている。運転手さんの「もうすぐ出ますよ」という声に反射して乗ってしまった。修行僧とは比較にならないほど志が低い。しかし16時までに戻る約束だ。時間を短縮できる手段は活用しよう。上り坂で20分の見当が4分で着いた。

京阪電鉄坂本駅。近代アート建築のようだ
バスの運行時刻はケーブルカーの運行と合わせている。ケーブルカーが毎時00分、30分の出発で、バスはその15分前に着く。きっぷを買う行列に並ぶと丁度良い頃合いだ。タイミングが良すぎて駅舎を観察する時間がなかった。ケーブルカーの車体は緑色と臙脂(えんじ)色の塗装で、扉部分が黄色。この色使いは中国伝来の仏教に由来するかもしれない。

比叡山ケーブルカー。運営会社は比叡山鉄道。京阪鉄道グループだ
車内に進んで、さて、どうしようか。進行方向の前で景色を見上げるか、後で下界を見渡すか。ケーブルカーに乗る時は、たいてい登って下るから、行きも帰りも進行方向を眺めれば両方の景色を楽しめる。しかし今回は片道だけだ。私は少し考えて、見晴らしを期待して後ろ向きに座った。もとより座席は下向きで、これが素直な乗り方だ。

竹林の木漏れ日が美しい。婆さんは邪魔
しかし、ここで困惑した。真っ赤なジャケットを着た老女が、最前部の真ん中でカメラを構え続けている。せっかくの景色が台無しだ。しかも赤は目立ちすぎる。動き出してしばらくして、伴侶と思わしき男性が周囲を気にして座れと言うけれども耳を貸さない。どうしたものかと思ったけれど、林を通り抜けて見晴らしが良くなったところで、敢えて私が声を上げた。
「おばさん、見えないから端に寄ってっ!」

正面に一瞬だけ琵琶湖が現れた
ばあさんと言わないだけ遠慮したつもりである。老女はこちらをチラリと見て、すこし右に寄った。私の視界は少し良くなったけれど、赤いからやっぱり目障りだ。そして右側には白人の家族が乗っている。今度は彼らの視界の中央に入ってしまった。やれやれ。海外から訪れた人々に嫌な思いをさせてしまったか。
比叡山ケーブルは全長2,025メートルで、日本のケーブルカーとしてはもっとも長い。途中に二つの駅があり、全区間の所要時間も11分と長い。その長い間に、婆の赤い後ろ姿がずっと視界に入る。運が悪かったと思うしかない。無礼な年寄りを見たときは、どうせ私より先に死ぬんだと諦めることにしている。そのうち私も言われる側だ。

森の中ですれ違う。婆さんが目障り
もっとも、沿線の景色のほとんどは雑木林に竹林。トンネルもある。視界が開ける場所は出発してすぐ。琵琶湖。曇り空で水面は灰色。そして森林に囲まれて、次の視界は頂上駅の手前のわずかな時間だ。正面より左側の窓のほうがよく見える。少し晴れてきて、水面は青くなった。ただし湿度も高く、対岸までは見えない。私は左側の席選んで正解だった。しかし白人親子に申し訳ない気がした。

頂上付近で一瞬、晴れた
比叡山は京都盆地と琵琶湖畔の間にそびえる。標高は約848メートル。平安時代に最澄が天台宗延暦寺を開創して以来、ほぼ全域を境内とする信仰の山だ。信仰の山は修行の場でもあり、凡人が易々と立ち入ってはいけないと思う。けれども、鉄道の開通で体力のない人も参詣できる。ありがたいことだ。

ゆるくカーブして正面に琵琶湖。日陰が婆さんを隠してくれた
ただし信仰心のない観光客もやってくる。私である。比叡山は東西にケーブルカーがあって、回遊ルートを形成する。一度通れば2路線を踏破できる。乗り回る効率が良くて、途中に比叡山延暦寺があるから「ついでに見物しよう」と思っている。開創した最澄の思い、信仰のために山を守り武家と戦った僧兵の魂に対して失礼だという自覚はある。しかし素通りすれば無礼にもほどがある。ちょっと寄り道してお詫びのご挨拶としようか。

ケーブル延暦寺駅。こちらもなんとなく中国文化を感じる
ケーブルカーの終点、ケーブル延暦寺駅から延暦寺までは、スマホの地図によれば750m、徒歩15分。この周辺を走るシャトルバスに乗れば10分だ。しかし、バスを待つ時間、バス停と延暦寺の道のりを見れば、歩いた方が早そうだ。ケーブル坂本駅では、延暦寺付近の気温は13度。下界より5度も低い。敬意と歴史を思い、秋の風を感じつつ、延暦寺に向かった。穏やかな散歩であった。しばらくすると、木々の間に真っ赤な塔が現れた。この赤は良い色だ。

延暦寺へ向かう途中から

東塔が見えた。もうすぐ延暦寺にたどり着く
-…つづく
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