第662回:隙間から琵琶湖 - 京阪電鉄石山坂本線 浜大津駅~坂本駅 -
浜大津へ戻る。石山寺駅は終点だし、平日のせいか電車は空いていた。座りたかったから助かった。情けないことに足腰に疲労感が残っている。ここから先、比叡山を越えるつもりだけど、それまでに回復できるだろうか。いや、足を引きずっても行くのだ。後戻りするつもりはない。気持ちだけは20代である。いや、30代にしておこうか。
電車で約20分。浜大津着。このまま終点の坂本駅へ乗り通す。まだ足は重くだるくて、座ったまま景色を眺める。昼下がりの電車が空いていて助かる。座ったまま前方を見れば、この先、しばらく併用軌道が続いていた。普通の電車が路面区間を走る様子を見たいけれど、降りて眺める時間はない。幸い、前方から石山寺行きがやってきた。運転室の窓越しに、併用軌道を走る電車を見た。これで満足としよう。
併用軌道区間
その併用軌道は三井寺駅で終わった。発車するとすぐに鉄橋で、これは川ではなく琵琶湖疏水だ。琵琶湖の水を京都に引くための水路であった。着工は1885(明治18)年。工期は5年。途中から逢坂山をトンネルでくぐり抜けて京都に注ぐ。いまもなお、京都の水源であり「京都め、生意気を言うと水を止めるぞ」は滋賀県民の決まり文句と聞いたことがある。
琵琶湖疏水のトンネルがあったからこそ、官営鉄道もトンネルで通り抜けようとした。京阪電鉄の前身、京津電気軌道は、なんとか逢坂山を併用軌道で乗り越えようとしたけれど、結局、250mのトンネルを掘った。
坂道を上る
石坂山本線の前身、大津電車軌道は、1927(昭和2)年に琵琶湖疏水の鉄橋を開通した。浜大津から石坂山に達した後、少しずつ比叡山へ向かって駒を進めていった。琵琶湖沿いを走れば景色も良かっただろうけれど、比叡山の麓を目指し、標高を少しずつ上げていく。左へカーブし、続いて右へ、また右へ。湖側は戸建て住宅、そして団地が現れる。これらの建物がなかった頃は、電車の窓から琵琶湖が見えたかもしれない。
アニメキャラクターの電車、タイトルはわからない
琵琶湖側の車窓は団地に続いてスタジアムになった。山側は学校だ。このあたり、大胆な区画で割り付けられている。そして別所駅。グラウンドと市役所に挟まれた駅だ。便利な路線だと思うけれども、京津線と石山坂本線は年間15億円も赤字だという。立派な複線の維持費用が大きいのかもしれない。
車庫、電車は出払っている。フル稼働中か
ここから線路は直線になった。電車は勢いをつけて上っていく。東海道本線のガードの下に京阪大津京駅がある。さらに住宅外を貫く直線が続き、近江神宮前駅に着く。ここには電車の車庫がある。すこし向きを変えてまた直線。その間、ずっと琵琶湖側を見ていた。建物の隙間から、ちょっとでも琵琶湖が見えないか。あ、あった。線路際の畑の向こう、すこしだけ水面が見える。海のような濃い青色だった。
白い架線柱の並びが、鳥居の並びに見える
まだまだ直線が続く。左側に広い道路が並んだ。こんなに良い道が整備されたら、電車のお客をバスに取られてしまう、と、しなくてもいい心配をする。その道路の向こう、山も近づいている。比叡山である。歴史上、恐れ多い山という断片的な記憶。天台宗の総本山。宗派の対立をきっかけに武装勢力を持ち、時の権力と対抗できるまでに至る。とくに織田信長との抗争が激しかった。そうか。かなり前に読んだ内田康夫の小説『地の日 天の海』だ。天台宗の大僧正、天海の物語だ。もう一度読んでみようか。舞台の地を知れば、また違う感想があるかもしれない。
あのお駅。心太と書けば、ところてん
“あのお”。なんだ。駅名だ。穴太と書く。面白いな。珍しい読み方だけど、以前訪れた三重県の三岐鉄道にも穴太駅がある。ただし、あちらのかな書きは“あのう”だ。この大津の“あのお”は、付近にある志賀高穴穂宮、“しがのたかあのほのみ”やに由来する地名と言われているそうだ。どの駅名をとっても歴史が出てくる。おもしろい。東京近郊はしゃれた地名で書き換えてしまうけれど、こちらは土地の名を大事にしているようだ。いや、どちらも歴史のある土地だけかもしれない。
高台から琵琶湖を望む
比叡山に近づき、沿線に寺社が多いのだろう。なんとなく車窓に緑が増えた気がする。線路はひときわ高いところに上がって、終点の坂本駅に着いた。到着の直前、琵琶湖の対岸まで見通せる景色があった。足のだるさは消えていた。電車には疲れを癒やす効能がある。私だけかもしれないけれど。
坂本駅に到着
運転席の曲面ガラスが洒落ている
坂本駅は終着駅
※坂本駅は2018年3月に坂本比叡山口駅へ改名された。
※別所駅は2018年3月に大津市役所前駅へ改名された。
-…つづく
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