第43回:ウンデッドニーの虐殺 その1
私が学生の頃、『ベリー・マイ・ハート・アト・ウンデッドニー』(Burry my heart at Wounded knee;Dee Brown著;日本語訳は『我が魂を聖地に埋めよ』鈴木主税訳、草思社)がちょっとしたセンセーショナルなベストセラーになった。西部劇に浮かれていた私にとって、西部開拓史をインディアンの立場から観るという、当然すぎることを突き付けられた思いがしたのだった。当時、ベトナム戦争への反戦運動、そして学生運動の絶頂期だった。征服される側から観た史観が一種の流行りになっていた。
こうしてインディアンの悲史のほんのサワリを書き連ねているのも、どこかにウンデッドニーの記憶が残っていたからだろうか。
今回、改めてウンデッドニーを取り上げたのは、1890年の虐殺に衝撃を受けたこともあるが、1968年のウンデッドニーのスタンドオフのことを書きたかったからだ。
話の順序として、1890年のウンデッドニーの虐殺に触れないわけにはいかない。ウンデッドニーは象徴的なインディアン虐殺事件になり、インディアンとアメリカの歴史に残る大事件だ。
ウンデッドニーは記録が多く、と同時に、事件後に撮られた写真も多く、そして東部だけでなく全米的に新聞に取り上げられた。出版されている本は20冊を軽く上回るだろうか。他にも、膨大な量の調査レポートが書かれている。ここの地方の大学町の図書館でさえ、10冊内外のウンデッドニーを主眼にした本があり、借り出すことができた。
前述したザッパクリークの虐殺とは15年しか離れていないのに、ウンデッドニー関連の史料は比較にならないくらい多い。しかもインディアン、スー族の記録、伝承も多い。『ブラック・エルクは語る』(Black Elk Speaks;1932年出版:詩人、インディアンの伝承を集めていたJohn Neihardt作、教養文庫;弥永健一訳)は秀逸な記録だ。ブラック・エルク自身は英語ができず、記録を取ったナイハルトもスー語が流暢ではなく、ブラック・エルクの息子の通訳に大々的に頼っているとはいえ、ブラック・エルクの記憶力には驚嘆させられる。
数多くの資料から、今ではかなり正確にウンデッドニーで何がどのように起こったのか分かっている。この悲惨な虐殺行為は、ウンデッドニーをスー族だけでなく、先住民族、インディアンの聖地にした。
合衆国政府のインディアン局はそれぞれの部族ごとに居留地を設け、そこに部族を収容しようとした。と同時に、合衆国に同化させようともした。全寮制の学校に子供たちを強制的に入れ、教育を英語で行い、その部族の言葉を話すことを厳禁した。親、親戚から切り離し、インディアンの伝承文化から、アメリカナイーズする方針だった。病院も建て、診療所を設けた。
こんなインディアン対策はいつまで経っても独自の文化に拘り、生活を変えようとしない部族を一気にアメリカ化してしまおうという意図のもとに強引に行われた。それは、各部族の伝統文化を無視するものだった。
パイン・リッジ(Pine Ridge)にあったオグララ・スー族の全寮制の校舎、宿舎
私が通った戦後の日本の小中学校より立派だ
しかし、よく見るとバラ線が張られた高いフェンスに囲まれている
インディアンの子供たちはここから出ることができなかった
それどころか、学校、寮のドアは常に鍵がかけられていた
かつ武装した警備員が巡回していたから、これは一種の強制収容所に近い
この学寮は1894年の2月に焼失した
この写真にある全寮制の学校、施設は最大200人収容できた。部族の子供たちはまるで畑からイモ、ニンジンを引き抜くように強制的に、暴力的に集められ、我が子を手放そうとしない親は殴り倒されてさえいる。
このようにインディアンを上からの力で慰撫する政策をアメリカ合州国はそれを独善とは気づかずに行っていたのだろうか。その上、巧みにキリスト教化を行い、“野蛮”なインディアンどもを従順な良いインディアンに変えようとした。学校の教師は“人類愛、博愛”の精神に富んだキリスト教信者たちだった。キリスト教的な神の教えに従う、現実を受け入れる諦観をインディアンに持たせることは、治世者にとって都合の良いことだった。
インディアンの酋長は、その部族全体を統制する存在ではなかった。戦争の場合にのみ、戦いを追行するために酋長が命令を下し、統率したが、日常生活は驚くほど個人主義だった。ただ、狩りをする時だけは、狩猟に長けた者の下で機能的に動いてはいた。
それに加え、メディスンマン(祈祷師)の存在があった。メディスンマンが部族に及ぼす影響は時に酋長を上まわった。というのは、メディスンマンは往々にして最強の戦士でもあったからだ。これが白人には分かりにくかった。アパッチ族のジェロニモは酋長であったことはなく、最後までメディスンマンだった。
これが、白人に分かっていなかったように思える。酋長はいかなる弱小国家の国王とも全く異なった存在だった。酋長の権限は、部族の隅々まで及ぶ性格を持っていなかった。酋長と条約を結んだのに、その部族のメンバーが白人の入植者を襲っているではないか、これは明らかに契約違反だ、条約を破ったのはインディアンたちが先だ、と演繹した。白人側が勝手な条約を作り、結ばせ、条約改訂という名目でその条約を破り、次々とインディアンを狭く不毛の地に追い込んで行ったのだが…。
オグララ・ラコタ居留地区にあるパイン・リッジのインディアン局の前で
食料配給を受けるため並ぶインディアンたち
配給日に600名の土民女性が来たと記録にある
これは1890年11月26日、ウンデッドニーの虐殺のほぼひと月前の写真
バッファローが白人の乱獲で消滅し、食べ物がなくなり、飢え、居留地に追い込まれたインディアンたちが絶望的な心境になり、すがるよう気持ちで集い、祈るように踊ったのがゴーストダンスだ。ゴーストダンスについてはすでに、第3回「インディアンの社会 その1」で書いたように、伝統的な祭典ではなく、白人に追い詰められたインディアンが、1870年代になってから教祖ウオヴァカがいつか白人どもが地上からいなくなり、バッファローの大群がやってくるという具体的な末世、来世思想の祈願を踊りに託し始めたものだ。これが爆発的に広がった。
忘我のトランス状態で踊るインディアンたちを白人どもは恐怖の目で見、あれは白人絶滅を祈願しているとても危険な集会、踊りだと禁止した。
-…つづく
第44回:ウンデッドニーの虐殺 その2
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