第41回:ザッパクリークの虐殺 その3
戦闘を成功させ、勝つには不意を衝く急襲が常道だ。織田信長の桶狭間の戦い、真珠湾攻撃などなど、敵が油断し、リラックスしているところを襲うのが基本的なやり方だ。対インディアン戦争でも、騎兵隊、インディアン両者奇襲の掛けあい合戦のようだ。ヘンリイ中尉も斥候を放ち、リトル・ブルの所在を掴むと、第6騎兵隊をザッパクリークの対岸に潜ませ、夜が明ける頃に総攻撃を仕掛けている。この夜明けというのも騎兵隊の常道だ。
一方のリトル・ブルは、自分たちが追跡されていることすら知らなかった。いわば眠りこけ、目を覚ます前に襲われたのだ。もちろん見張りなどは立てていなかった。
この戦闘はザッパクリークの戦い、あるいはシャイアンホールの虐殺として知られるようになるのだが、戦闘模様はヘンリイ中尉が本部に送った報告書と証言として二人の騎兵隊員、最下位の二等兵マーカス・M・ロビンソンと軍曹プラッテンのものがあるだけだ。ちなみに、この二人もザッパクリークの戦いでヘンリイ中尉と並び名誉勲章を授与されている。
いずれも、騎兵隊側の証言だけしかなかった。ヘンリイ中尉は、さすがエリートというのは報告書をこのように巧みに書くものかと感心させられるくらい具体的、克明に描写しているが、当然、勝者の自己弁護、自己宣伝に満ち満ちた手慣れたレポートで、士官学校ではこんな報告書の書き方までよろしく指導しているのではないかと思わせる。
最下級の兵士ロビンソンの証言の方が、具体的な記述に終始し克明だ。当時のアメリカ人全体の識字率は低かったから、このロビンソンのように読み書きが達者な若者が騎兵隊の最下位ランキングにいたことに驚かされる。プラッテン軍曹のは、話が飛ぶうえ他の戦闘と混同したりで、艶やかにかつグラフィックに描写し過ぎている。どうもプラッテン軍曹の記録は聞き書きらしい。いずれにせよ、勝ち組の白人の記録しかない。
シャイアン族側は皆殺しに遭っているので(かろうじて逃げ延びたインディアンが数人いたが)、当然、インディアンサイドの証言はない。サンドクリークで生き延びた混血のジョージ・ベントが(彼のことは第25回のコラムで書いたが、英語、シャイアン語に通じ、政府の公式的通訳として活躍していた)、シャイアン族の当事者にインタビューした記録を1909年に人類学者ジョージ・ハイド(George Hyde)に書き送った手紙が1964年になってから公開出版された。ジョージ・ベント自身はザッパクリークに同行していないにしろ、彼の長大な手紙がインディアンサイドからの唯一の証言になった。
ザッパクリークの襲撃は完璧な奇襲で、シャイアン族が応戦するイトマなどまるでなかった。ヘンリイ中尉は(彼の報告書によれば)シャイアン族の戦士50人ほどを取り囲み、無条件降伏し、捕虜になるならお前たちを人道的に扱い保護する、もし抵抗するならそれなりの処置を取ると宣言し、言い渡した……ことになっているが、ヘンリイ中尉のシャイアン族に対する最終通告を耳にした隊員ももちろんシャイアン族もいない。
ヘンリイ中尉はシャイアン語で演説などできないし、米語でやったとしても、米語の分かるシャイアン戦士、家族は極わずかだったろう。これは軍の上層部に報告するための創作だろう。リトル・ブルを説得しようとし、捕虜になるように勧告したが、彼らはそれに応じず、発砲してきたのでやむなく殲滅した…との屁理屈だ。
ブラッテン軍曹ですら、リトル・ブルのシャイアン族は当時にあっても旧式の銃、先込め式のミューズル銃数丁、一丁のシャープ銃の単発ライフルと弓矢しか持っておらず、取り囲んだ騎兵隊の方は連発式のライフルそれに豊富な銃弾を装備していたので、インディアンをまるで処刑、銃殺刑にしているようなものだったと語っている。
結果、騎兵隊側での損害?は二人、それもクリークを渡る時に馬が泥に足を取られ転倒し、乗っていた騎兵隊員が負傷し、引き上げる途中で死亡したことのようだ。
リトル・ブルのシャイアン族は事実上殲滅された。壮年の戦士が60人以上いたことは確かなようだが、もちろん彼らの妻や子供、年老いた両親など、非戦闘者が何人いたか、殺されたかは確定できていない。白人の軍隊発表とインディアンサイドが主張する犠牲者数は常に大きく異なる。あくまで推定の域を出ないが、総計200人前後になると思われる。
ヘンリイ中尉の第6奇兵隊は、各自、記念品、シャイアン族の羽カンムリ、首飾り、弓、トマホークなどを手に手に凱旋した。奇妙なのは134頭もの馬を戦利品として持ち帰っていることだ。リトル・ブルが率いて北上しようとしていた北シャイアン族がそれだけの数の馬を保持していたのは、もちろん荷を引かせる移動のためだが、騎兵隊、ヘンリイ中尉が主張するインディアン戦士が50-60名(殺した数)というのは、馬の数から観ると異常に少ない数字だ。134頭の馬を使って移動する部族は、300名を越していたのではないか。
カンサス州北西部に開拓民として入植したウイリアム・D・ストリート
恐らく、彼がザッパクリークは騎兵隊の一方的な殺戮行為だったとした先鞭をつけた。
彼は騎兵隊の斥候としてカンサス、コロラド、アリゾナなどを渡り歩いた経験もあり、
インディアンとの戦闘にも参加に加わったこともある。
西部を股にかけて駆け回った強者で、ぽっと出の入植者ではなかった。
ザッパクリーク近くに入植し、虐殺の現場を幾度となく訪れているウイリアム・D・ストリート(William D.Street)は、西部開拓史の英雄談、ヘンリイ中尉と第6騎兵隊の活躍に疑問を持った。白人サイドだけという条件はあるにしろ、事件に関与した騎兵隊員、近隣の砦に詰めていた騎兵隊員、それに周囲の入植者などの証言を集め、それが事件後34年経った1908年に、やっとカンサス州歴史協会の手で発表された。ザッパクリークでは、ヘンリイ中尉率いる第6騎兵隊のそれまで信じられてきた英雄談とは逆に、彼らが一方的な殺戮を行った疑いが強いと疑問を投げかけたのだ。
ウイリアム・ストリートがザッパクリークを散策したのは殺戮直後だった印象だが、具体的な日時は書いていない。はっきりしないが、その時、彼はシャイアンの戦士の遺体70体を数えたとしている。遺体は葬られることなくその場に放って置かれたのだ。
-…つづく
第42回:ザッパクリークの虐殺 その4
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