第20回:初めての日本 その2
更新日2007/07/19
吹田おばあさんの思い出は尽きることがありません。
吹田おばあさんが私の中でこんなに大きくなり、日本が大好きになる要因にどうしてなったのか考えることがあります。日本では何十人という親切で優しい人と知り合いになり、中には一生の友達になった人もいます。英語を上手に話し、それでいて日本の伝統文化に造詣の深い人もたくさんいました。ですが、吹田おばあさんは特別でした。
私のように比較的長く日本に住んだことのある外国人にとって、やりきれないのは、「我々日本人は……」と、日本を代表したような意見を聞かされることです。その言葉の裏には、多少のコンプレックスと"外人に日本のこと、日本人の気持ちが分かってたまるか"という気持ちが見え隠れし、私たち外国人に対して、肩肘を張るような態度で接してくることです。安手な"日本人特殊論"をうんざりするほど聞かされたことです。
確かに日本人は特殊ですが、それはあなたが日本人だからで、アメリカ・インディアンのナバホ族、パプアニューギニアのモニ族も特殊であると同じレベルにおいてのことなのです。「我思うゆえに我有り」と言った昔の哲学者の言葉の意味が分かっていないようなのです。気楽に、自然に一個人として接してくれれば、もっともっと親しくなれるはずですが。
吹田おばあさんには、"こんなところを外人さんに見せては、恥ずかしいとか、日本の恥になる"といった考えはカケラもありませんでした。外人さんに日本の良いトコロを見せたいとか、伝統的な日本を押し付けがましく見せたいというところが全くなく、彼女が七十数年生きてきたやり方、他の日本人と接してきた同じやり方で私に接してきたのです。もっとも、おばあさんの生き方そのものが私にとって何よりも日本そのものだったのですが。
私がお琴を始めたとき、微妙なニュアンスは日本人でなければ表現できない、弾くことができないと、周囲の人によく言われました。もっとも尊敬するお琴の先生、その流派の大先生はそんなことは一言も言いませんでした。お琴のもっと深いところを知り、音楽そのものを理解していたからでしょう。
「日本人でなければ…」というタイプの人は、100パーセントと言ってよいと思いますが、お琴を弾いたことがないどころか、静かにお琴を聴いたこともない人たちで、古い日本文化を省みたこともない人たちなのです。外人が目の前に現れるやいなや、そんな人たちは日本を背負って立ったようなことを言い始めるのです。
そのような低次元の文化論を聞かされるのはうんざりさせられ、本当に疲れます。西洋の楽器であるヴァイオリン、ピアノ、強いてはオーケストラそものも、日本が世界で最高水準であることは知れ渡っていますが、ヴァイオリンは西欧人でなければ弾きこなせないなどと言う人はいません。
吹田おばあさんは私が立てる騒音に、どんな楽器でも初めの頃は騒音に近いものですが、苦情一つ言わず、それどころか、「上手になった」とか「かなかなかエエモンや」と励ましてくれました。
二十数年ぶりに吹田おばあさんを訪れました。おばあさんは仏壇の中からにこやかに私を見つめていました。吹田駅も商店街も道に迷うほど変わったのに、古い長屋は私が住んでいたときと全く変わらず、タイムカプセルに入り込んだようでした。
初めてお目にかかった空飛ぶ巨大なゴキブリに腰を抜かすほど驚いたこと、古い畳から湧き出るように総攻撃をかけてきたノミ、それを退治するために吹田おばあさんの指揮下に畳をはがし、縁側に干し白い粉の毒を撒き、下に敷いてある新聞を、何十箇所と刺された痒い体で取り替えたことなどを思い出したのでした。
吹田おばあさん、あなたに出会ったことは幸運でした。本当にありがとう。どうか安らかにお休みください。
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