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■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

第359回:流行り歌に寄せて No.164「世界の国からこんにちは」~昭和42年(1967年)

更新日2018/09/27


日本という国が、本当に勢いを持った時代だったのだと思う。3年前に東京オリンピックを成功させ、さあ3年後の昭和45年、1970年には、今度は日本第二の都市である大阪で万国博覧会を開いて大成功させてしまおう。そんな意気込みである。

1851年、ロンドンで最初に開かれて以来、ニューヨーク、パリ、ウイーンなど欧米各国で開催され、開催が文化国家の証とされていた万国博覧会。それを日本で行なうことはオリンピックに続き、戦後復興を世界的にアピールし、国際社会の一員としての地位を確保する絶好の機会、そんな認識を当時の政府は持っていたはずだ。

太陽の塔、お祭り広場、エキスポランド……。参加国数77ヵ国、4国際機関、そして30を数える企業が「パビリオン」という名の建物の中でさまざまな展示をした。

私は当時中学3年生だったが、家族4人で一泊二日で見学した。入場料、父と母は800円、私は600円、小学生の妹は400円だった。締めて2,600円也。当時はかなり高額だと思った。父親も奮発してくれたのだろう。宿泊したのは千里ヶ丘ニュータウンの、まだ一般分譲する前の真新しい建物だった。

さて『世界の国からこんにちは』だが、やはり国家としての大プロジェクトだった東京オリンピック時の『東京五輪音頭』と同じく、多くの歌手の競作となった。

三波春夫(テイチク)、坂本九(東芝音楽工業)、吉永小百合(日本ビクター)、山本リンダ(ミノルフォン)、叶修二(日本グラモフォン)、弘田三枝子(日本コロムビア)、西郷輝彦《A面》・倍賞美津子《B面》(日本クラウン)、ボニージャックス(キングレコード)の8社がリリースしている。

全体で300万枚を売り上げたが、そのうち140万枚という約半数近くの数字を叩き出したのが『東京五輪音頭』に続き、三波春夫その人であった。やはりシベリア抑留を経験し、祖国の平和と発展に対する思いの強さが、人一倍あったことが影響しているのだろう。

三波は平成6年に開いた『芸道55周年記念リサイタル』で。この2曲のことを「生涯の宝物でございます」と語ったと言われる。


「世界の国からこんにちは」 島田陽子:作詞  中村八大:作曲  福島正二:編曲  三波春夫:歌

1.
こんにちは こんにちは 西のくにから

こんにちは こんにちは 東のくにから

こんにちは こんにちは 世界のひとが

こんにちは こんにちは さくらの国で

1970年の こんにちは

こんにちは こんにちは 握手をしよう

2.
こんにちは こんにちは 月へ宇宙へ

こんにちは こんにちは 地球をとび出す

こんにちは こんにちは 世界の夢が

こんにちは こんにちは みどりの丘で

1970年の こんにちは

こんにちは こんにちは 握手をしよう

3.
こんにちは こんにちは 笑顔あふれる

こんにちは こんにちは 心のそこから

こんにちは こんにちは 世界をむすぶ

こんにちは こんにちは 日本の国で

1970年の こんにちは

こんにちは こんにちは 握手をしよう

こんにちは こんにちは 握手をしよう


作詞家の島田陽子は、同姓同名の女優はいるが、もちろん別人で、大阪弁を使った親しみやすい作風を持つ詩人である。東京生まれであるが、11歳の時に大阪に移り、その後の生涯を大阪で過ごした。『かさなりあって』『うち知ってんねん』などの詩集があり、作詞もいくつか手がけている。昭和4年生まれ。平成23年、すい臓がんにより81歳でその生涯を閉じた。

毎日新聞社主催の一般公募で選ばれた島田の作品に、中村八大が曲をつけた。応募した時点でのタイトルは『世界の人がこんにちは』だったと言う。

編曲の福島正二は、石原裕次郎『逢えてよかった』、一戸竜也『東京の流れ星』、鶴美幸『待ちぼうけの女』など、主に昭和30年代に活躍した作曲家のようだが、今回ネット上では、あまり詳しい資料は見つけられなかった。今後また登場したら、詳しく調べていこうと思っている。

8人、1組の競作であるが、私が聴いた記憶にあるのは、三波春夫をはじめ、坂本九、吉永小百合、山本リンダ、弘田三枝子盤ぐらいである。中でも弘田三枝子盤はパンチがあって、とてもウキウキとして歌っているのが印象的だった。『人形の家』でスリムになって登場する前の、まだポッチャリとしている頃のミーコである。

坂本九は『東京五輪音頭』に引き続き競演してきていて、編曲も中村八大が手がけているなど大変気合が入っているが、大御所三波には及ばなかったようだ。しかし、『世界の国からこんにちは』を紅白で歌ったのは坂本九だけである。発売の翌年、昭和43年の大晦日だった。

山本リンダは、前年の大ヒット『こまっちゃうナ』から半年後の勢いのある時の吹き込みで、まだあの舌ったらずの歌い方が多くの人に受けていたが、その後『どうにもとまらない』までは歌手として不遇の時代を過ごした。

吉永小百合。この曲が世間に公表された会見の際、生で歌った最初の歌手だったそうである。このことは、私は覚えていない。

私個人的には記憶にないが、日本クラウンはA面に西郷輝彦、B面に倍賞美津子と同じ歌を別々に歌わせた企画が面白いと思う。クラウンを代表する流行歌の西郷と、SKDを出身したばかりの、歌が上手くて美しい新人の倍賞とのカップリングで、さあ売っていこうという姿勢が感じられる。

叶修二は青春歌謡の人だという認識はあり、『素敵なやつ』という曲のタイトルは覚えているが、残念ながらあまり詳しい記憶はない。余談になるが、この人は4年前の2月に66歳で亡くなっているが、その死が公表されたのが、つい3ヵ月あまり前のことだったと言う。遺族の希望で長い期間公表を避けていたとのことである。

ボニージャクス盤も記憶にないが、そのB面の石川進が歌った『オバQ万博へ行く』は話題になったのでおぼろげながら覚えている。こうやって辿ってみると、自分の記憶というものは、実にいい加減なものだと思ってしまう。

1970年の開催から3年も前から、その主題歌を多くのレコード会社の競作にして、何とか大阪万博を成功させようとしていたことが、今回よく理解できた。万博開催からちょうど50年の時を経て開催される、2回目となる東京オリンピックは、さてどんな大会になるのだろう。

-…つづく

 

 

第360回:流行り歌に寄せて No.165「ブルー・シャトウ」~昭和42年(1967年)


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金井 和宏
(かない・かずひろ)
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1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice


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