第352回:流行り歌に寄せて No.157 「この広い野原いっぱい」~昭和42年(1967年)
森山良子が、当初、ジャズ歌手を目指していたというのは意外な思いがした。父がトランペッターの森山久、叔父が歌手のティーブ釜范というジャズ畑の身内がいることは知っていたが、彼女の声質からイメージして最初からフォークの人と決めつけていたのである。
中学生時代にすでにウエスタンバンドを結成し、早熟ぶりを発揮していた彼女は、高校入学後からフォークブームの影響を受け、いろいろなコンサートに参加をし、プロの目にも止まる存在になっていく。
昭和42年1月、アメリカを代表するフォークシンガー、ジョーン・バエズが東京公演をした際、当時の森山良子のプロデューサーが彼女も出演させて欲しいと交渉し、それが実現した。公演はテレビ中継までされたため、19歳の無名の歌手は、一躍全国に名前を知られるようになったと言う。
スタッフ側の「和製ジョーン・バエズ」作戦は功を奏し、その公演の直後に発表された森山良子のデビュー曲『この広い野原いっぱい』は大きなヒットとなった。彼女がどのようなジャンルに進もうかとの決定をする前に、すでに音楽業界のプロたちによってレールは敷かれていたのである。
「この広い野原いっぱい」 小薗江圭子:作詞 森山良子:作曲 服部克久:編曲 森山良子:歌
1.
この広い野原いっぱい さく花を
ひとつ残らず あなたにあげる
赤いリボンの 花束にして
2.
この広い夜空いっぱい さく星を
ひとつ残らず あなたにあげる
虹にかがやく ガラスにつめて
3.
この広い海いっぱい さく舟を
ひとつ残らず あなたにあげる
青い帆に イニシャルつけて
4.
この広い世界中の なにもかも
ひとつ残らず あなたにあげる
だから私に 手紙を書いて
手紙を書いて
この曲については、森山良子がたまたま訪れた銀座の画廊に置いてあったスケッチブックに書かれた詩に、彼女が30分ほどで曲をつけてしまったというエピソードが有名である。そして出された、彼女のデビューであるシングル盤レコードには『高橋兵蔵』作詞とクレジットされている。
ところが次に出された盤からは、作詞者が『小薗江圭子』に変更されている。ここら辺の様子を知りたいと思って調べてみたが、まったく分からなかった。そもそも高橋兵蔵という鬼平のような名前の人物について触れられたものが、一切見当たらないのである。
当初、小薗江圭子が何らかの理由で、例えば想い人に心情を知られたくないなど、自分の作品であることが公になるのを避けて、このような形になったのではないかと、自分なりに想像してみるばかりである。
その小薗江圭子という人については、私も以前から聞いて知っていた。大変に多才な方で、ぬいぐるみ作家として若くから注目され、それに関する著作も多い。絵本画家としても、童話作家の松谷みよ子と組んだ『おばけちゃん』シリーズなどを手がけ、また自身も童話作家として文章の方を担当している作品も多数ある。また、自らのライフスタイルをもとにエッセイも書かれている。
大変な猫好きとしても有名な方だったそうだ。そして、7年前の10月に76歳で亡くなっている。多くの力作を残されたにも関わらず、新聞には訃報は掲載されなかったとのことである。私の心の中に、そんなに大きな位置を占めないまでも、しっかりと残っている、そんな人になった。
森山良子と言えば、私の家族のことで思い出すことがある。このデビューから7年ほど経った頃、私の両親が、彼女の第一集目の讃美歌アルバム『うるわしの白百合』を購入した。以前から度々触れているが、私の両親ともクリスチャンであり、讃美歌を歌うことがとても好きな人たちだ。
そのアルバムには、タイトル曲の『うるわしの白百合』(讃美歌496番)の他に、『朝風しずかに吹きて』(同30番)、『いつくしみ深き』(同312番)、『まぼろしの影を追いて』(同510番)、『あまつましみず』(同217番)など、クリスチャンであれば、誰でもが聴き、また歌い親しんだ名曲の数々が集められていた。
私はレコードを聴く前だったが、森山良子の歌唱であればとても感動的だろうと思い、聴き終わったという二人に「どうだった。素晴らしかったでしょう?」と快活に訊ねてみた。
ところが、両親ともあまり浮かない顔をしている。父親の方が、「歌声はとても美しいんだけどね。何かこちらに響いてこないんだよ。信仰の問題かな…」と呟くと、母もそれに継いで、「やっぱりクリスチャンじゃない人の歌う讃美歌なのね…」と言った。
当時18歳頃だったと思うが、教会生活をずっと続けていた私には、二人の言う意味がよく理解できた。今でも言葉ではうまく説明できないが、宗教ということとは限らないにしても、歌の世界にはそういうことは確かにあると思っている。
-…つづく
第353回:流行り歌に寄せて No.158「小指の想い出」~昭和42年(1967年)
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