■TukTuk Race~東南アジア気まま旅


藤河 信喜
(ふじかわ・のぶよし)



現住所:シカゴ(USA)
職業:分子生物学者/Ph.D、映像作家、旅人。
で、誰あんた?:医学部で働いたり、山岳民族と暮らしたりと、大志なく、ただ赴くままに生きている人。
Blog→「ユキノヒノシマウマ」





第1回~第50回まで

第51回:Vietnam (6)
第53回:Vietnam (7)
第53回:Vietnam (8)


■更新予定日:毎週木曜日

第54回:Vietnam (9)

更新日2007/04/19


キムカフェの格安バスチケットを使って、北から南へ一気にベトナムを下ってきた。そして、地元民からは今でもサイゴンと親しみを持って呼ばれる、押し迫ってくるような熱気と勢いに溢れるホーチミンに辿りついた。その熱気にはもちろん、初夏という時期的な理由や、インドシナ半島の南の端まで来ているという地理的な理由というのもあるだろうが、それらの理由をも凌駕する、何かこう街全体が躍動しているのが実感できるような人の活動のオーラがあった。そういえばこの類の熱気というのは、中国の上海で感じたものにも通じるものがあるかも知れない。

ベトナム最大の都市であり、ベトナム経済の中心部でもあるここサイゴンは、ベトナムを旅する貧乏旅行者にとっても拠点となる町であり、フォングーラオ通りと呼ばれる区域へ行けば、世界に名高い安宿街のバンコクに匹敵するほどの安宿や格安旅行会社がひしめいている。我々もフォングーラオ通りで、1泊5ドル冷房つきの部屋に泊まったのだが、宿の前の食堂で朝食のバインミー(ベトナムサンドイッチ)を食べていると、これまでに通過してきた町々では見かけることがなかったほどの日本人バックパッカーがいることに驚く。

しかしよく考えてみればおかしな話なのだ、北京や上海では街が大きくて広いことや、それほど貧乏旅行者に人気がある場所ではないということから、日本人バックパッカーとそれほど出会わなかったというのは簡単に納得できることなのだが、それ以外に通過してきた町については、日本人バックパッカーも決して少なくはない場所であるはずなのだから。

もちろん本当のところはよくわからないが、おそらく我々が英文観光ガイドや欧米人旅行者たちとの情報交換を元に旅を続けていることが、日本語観光ガイドと日本人宿で情報を仕入れている場合とのルートの違いになって表れるのかもしれなかった。

とにかく自由旅行とはいえ、やはり何の情報もなしに国境を越えたり、安宿へ向かうというわけではなく、有意義な情報をガイドブックや他の旅人から集めながら進んでいくのだから、それなりに旅人たちの辿るルートというのは限られてくる。そしてそのルートにも、おそらく日本人が辿りやすいルートというのがやはりあるものなのだろう。その証拠に、この旅に限らずこれまでの経験からしても、欧米人宿、日本人・韓国人宿、イスラエル人宿というのはどこへ行っても必ず見かけた。もちろん、日本人宿だからイスラエル人は絶対に泊まっていないというわけではなくて、そういう風に自然と固まっている場合が多かった。そして、その宿を拠点として、旅のルートにおける線というものもある程度引かれていくものなのかもしれない。

我々の場合、特に意識して日本人を避けながらとか、もちろん探しながら旅をしてきたというわけではなかったが、どうもここまでは日本人バックパッカーと出会う機会はあまりなかった。どうやらいったん情報の糸からずれると、同じ町を経由してもルートは隣り合わせの平行線のように微妙に外れてくるものなのらしい。

サイゴンの街中を歩いていると、このベトナム旅行の間にずっと顔を合わせ続けてきた、例のフランス人カップルとばったり路上で出会った。あまり好印象とはいえなかった旅の道連れではあったが、我々もこれでベトナムは最後の街の予定だし、そう考えると彼らと会うことももうないのかもしれないと思い、近くのカフェでベトナムコーヒーを一緒に飲むことにした。しかしながら、テーブルについてしばらく話してみても、やはりこの男は嫌な奴であった。女性の方は、にこやかで可愛らしいフレンチガールだったのだけれども…。

旅先では、どういうわけが立て続けに誰かと顔を見あわせる機会が続くことがあるものだが、この日の午後はまさにそういう一日だった。フランス人カップルと別れてしばらくすると、今度はフエで帝廟巡りを一緒にしたカナダ人女性のレイチェルと路上でばったりと出会った。レイチェルはその後も一人旅を続けており、フエで別れてからは、我々と同じくホイアンへ向かい、我々がニャチャンへ行っている間に、ベトナムの高原リゾートとして知られるダラットへ寄って、ここサイゴンへやってきたという。

女性の一人旅というのは、安ドラマの影響で何かしら感傷旅行というような勘繰りをされかねないが、当然ながらレイチェルの場合にも、別にそういったイメージは一切なく、純粋に忙しい仕事の日々から解放されて自由を満喫しているといった感じであった。

落ち着いた口調で旅の話を話してくれるレイチェルは、アメリカの大学院で修士号を取得後にカナダに戻り、ファイナンシャルアドバイザーとして数年間働いた後に、この旅に出たのだという。まだこれから先の旅の予定はどうなるかわからないが、ベトナムの後はカンボジアへ向かい、そこからタイへ抜ける予定だという。中国から始まってタイへ…、まったく我々と同じ行程の旅行計画だということを知り、お互いにまたどこかで会うのかもしれないねなどと話が弾んだ。

昼食を一緒にとった後、レイチェルと我々は戦争記念館へと向かった。この戦争記念館には、フランスからの独立のために戦ったインドシナ戦争から、冷戦の被害者としてアメリカとの泥沼の戦いに陥ったベトナム戦争にいたる、ベトナムの血塗られた戦争の記録が保存されている。

小説や映画の影響で、どうしてもベトナムというと戦争のイメージが抜けなかった自分だが、現実のベトナムの街角は、そんなものは過去の忘却の彼方へ追いやったかのような前進するエネルギーに満ちていて、かつての戦争のイメージは完全に掻き消されているような印象すら受けた。

だが、この戦争記念館へ一歩足を踏み入れると、そこには廃車になったベトナム戦争時の戦車や、枯葉剤の影響で奇形児として生まれた赤ん坊のホルマリン漬け、さらにはインドシナ戦争とベトナム戦争を通して、ローバート・キャパや沢田教一らが切り取った生々しい写真も多数展示されていて、やはり本当にここにはそういう現実があったのだと改めて思い起こされる。

こういう戦争の記録を集めたのものは、事実がどうということは別にして、やはりどうしてもプロパガンダ的な要素とは切っても切れない部分があり、アメリカや日本で知っているものと、ここベトナムに展示されているものとでは感じるインパクトがずいぶんと違う。言葉ではうまく言い表せないが、それは広島の平和記念館を訪れて感じるものと、スミソニアン博物館に展示された時の原爆記録との違いに近いものだったかもしれない。

戦争記念館を見学した後の、少しばかり重い気分を引き摺りながらシンカフェへ向かい、カンボジアへのビザを申請した。ビザの申請自体はまったくツアー会社任せの簡単なものだったのだが、ここでもやはりツアーチケットの安さに驚いてしまう。サイゴンからカンボジアのプノンペンまでの片道バスチケットがたったの5ドルで買えてしまい、ベトコンの抵抗の拠点として知られるクチへのツアーチケットが4ドルであったのだから。

…つづく

 

 

第55回:Vietnam (10)