坂本由起子
(さかもと・ゆきこ)

マーケティングの仕事に携わったあと結婚退社。その後数年間の海外生活を経験。地球をゴミだらけにしないためにも、自分にとって価値のあるものを探し出したいと日々願う主婦。東京在住。

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第14回:暗闇があってこそ美しい

午後に外出して、さて帰ろうかと建物を出たところ、すっかり日が暮れていて慌ててしまった。時計を見るとまだ夕方の6時すぎ。なーんだと思いつつ、あぁ…また秋がやってきたんだなぁと、うれしくなる。そういえば涼しい夜風に乗って虫の鳴き声も聞こえてくる。私たちが忘れていても自然界では忘れることなく季節が巡る。四季がある日本に暮らせて幸せだなぁと思うのが、こうした季節の変わり目を感じたときだ。

一日のうちで空が一番きれいだと思うのは、日が沈んだ少しあとの、うっすらとセルリアンブルー色になったときだ。部屋のランプの黄色い光と、窓の外の青い空が対照的で毎日見ても飽きない。これは蛍光灯の光では絶対に見ることができない。白熱灯の黄色い光があってこその美しさなのだ。

私が子供のころは、どこの家も蛍光灯で部屋の隅々まで明るく照らしていた。白い光は豊かさの象徴のような時代だったのかもしれない。とにかく夜は、昼間のように明るくしていたものだった。

そんな当たり前が崩されたのは15歳のとき、初めて行ったハワイへの海外旅行だった。見るものすべてが興味の対象になったのだが、そのなかでもとくに印象に残ったのが、室内の照明の使い方だった。初めは、どこへ行っても、何でこんなに薄暗いんだろうと不思議に思った。そして、やがてそれが「なんて心地良いんだろう」に変わった。昼間は眩しい太陽の光と影のコントラストが美しく、夜は白熱灯やキャンドルの柔らかい光と奥行きのある影。部屋全体を照らすのではなく、人がいる場所にいくつかの明かりを灯すことで部屋も人も美しく見えた。それは今までの自分の生活にはないものだった。

その後、アメリカで暮らすことになり、最初に気づいたのは、部屋の天井にライトを取り付ける穴やプラグがないことだった。他の家ではどうしているのかと思えば、カウチの側やベッドサイド、壁際にランプを置いているだけだ。天井から吊すタイプの多くはシャンデリアで、ダイニングテーブルの上に付けることが多い。蛍光灯もあるが、それはキッチンで使われるものだった。文化の違いを感じたりするのは案外こんな日常からだったりするのだ。

レストランも街灯も、暗すぎず明るすぎないという、ほどほどさがよかった。高速道路も明かりのないところのほうが多い。けれど車のヘッドライトがセンターラインをくっきり照らすので意外と走りやすい。

いま思うのは、東京は明るすぎるということだ。首都高速はライトが多すぎるし、街ではネオンサインや商店の明かりが多すぎて、外で本が読めるほどだ。もちろん星なんてほとんど見えない。夜の東京の街ほど落ち着かないところはないんじゃないかと思う。だから、せめて自分の家だけでもくつろげる場所にしておきたい。せっかく秋の夜長を迎えるのだから。

夕暮れどきにランプを一つ点け、夕食どきは食事がおいしく見えるようにもう一つ点ける。食後のゆったりした時間にはランプをひとつ消し、アロマキャンドルを灯してみる。そして就寝前にはベッドサイドの灯りだけにして眠気がやってくるのを待つ。こんな風に一日の終わりに合わせて明かりの数も減らしていくと、昼間とは違った雰囲気になり、家で過ごす夜もなかなかだと思えてくる。

 

→ 第15回:神がいない月のお祭り


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