原園 綾
(はらぞの・あや)

1967年生まれ。世田谷区立赤堤小卒。ニューヨーク在住。大きくなったら何になろうかな?

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第11回:アメリカの風景

アメリカといってもワニがいる南部からドカ雪や嵐がやって来る中部、砂漠、ロッキー山脈、遠くはアラスカ、ハワイまで。気候も風景も幅が広い。南北があるのは日本も小さいわりには沖縄から北海道まであるので意外と想像できるものだけど、東西の幅ときたらスケールが違う。西海岸と東海岸では天候や風景だけでなく街の雰囲気が全然違うでしょ。建物も食べ物も人も。でもやはりアメリカの醍醐味はその間に横たわるだだっぴろい乾いた土地だったりするんじゃないかな。

アメリカ人の多くは実家に帰り七面鳥を食べてた感謝祭のお休みにテキサスとニューメキシコにでかけたのだ。白い砂漠や鍾乳洞、あと以前から行ってみたかったアートスペースを訪ねる旅。テキサス州のエルパソまで飛行機で飛んで、そこからはレンタカー。免許もあるしね!

車でひたすら変わらない風景の中を走り続けていると日本やヨーロッパなどで移動する時には感じられないある感覚がゆっくり再生される。変化のない殺風景な道を運転すれば(なーんちて私が運転したのはホンの一部だけだった)、脇に点在する家などが視界を走り去る。牛や馬もいれば、へんてこな用途のわからない建造物もある。Out of nowhereという表現があるけど、まさしくnowhereの感じ。自分はどこにいるのか、なぜいるのか、突然ここにきてしまったような気分。その風景もnowhereだけど、自分自身までもnobodyになってしまう。こんなに消費文化の最たる国なのにスカスカの土地がこんなにある。その荒野にはいわゆる歴史を超越する地球の歴史があらわにあって、たとえば富士山で東海道を想ったり、ヨーロッパの田舎で中世またはケルト(ですら!)を想うのとはケタが違う。アメリカという国の始まりがヨーロッパの持つ歴史との決別だったなら、なんてぴったりの土地が用意されていたのだろうか。木一本、葉一枚にすらニュアンスをのせてしまうような文化がないのか、風土がないのか、単にこちらに先入観がないだけか。

不思議なのは、その単調な乾燥した風景がいったん頭の切り込みにすっと入りるとすごくナマ(脳みそと言いたいくらい)の部分が活動し始めるような。「動き」というのもきっとすごく関係があって、ロードムービーってジャンル分けされる映画があったけど、とても基本的な移動としての動き、それも単純な継続移動が、頭の中のイメージに深く働きかけてるのも実感しちゃう。

お目当てのアートスペースはドナルド・ジャッドという数年前に亡くなった彫刻家のアトリエ美術館のような場所。ニューヨークに住みながら、テキサス州のマーファというすっごく小さな田舎街に第二の住まいとアトリエを持ち、既存の展示室に作品を置くという美術館やギャラリーでは不可能な「作品と展示空間の創造」をしたという、現代美術の伝説的場所の一つ。写真でも充分かっこいいんだけど、やはり行ってみなくちゃわからない。ニューヨークから飛行機乗り継いで6時間余り、運転して3-4時間。丸1日かけて辿り着く間に、こちらの頭も体も先に書いたようなプロセスを経過してるでしょ。空港からすぐの町中にあったらこうは行かない。着いた先が特別な場所なのではなく、運転してきた風景の延長。彼の作品は元は軍の施設だったレンガ造りの建物の側面をガラスにした中に、スチールのボックスが100個並ぶ。作品が互いに反響するだけでなく、外の風景とも反響する。冷たく堅くシャープな直角と銀色の面。ガラス越しにはざっくりとした風景。屋外にはコンクリートの四角い作品が草むらに並ぶのも見える。

中と外。堅さと柔らかさ。色と光。

外に出て歩くと荒削りの風景の中で、逆に体の強さ、体温、積極的な生命力のようなものを感じて、むしろ相対的には土地の繊細さ、壊れやすさが見えてくるような感じがしたんだなあ。という旅でしたのよ。

 

→ 第12回:君の名はマントホエザル~その1

  

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