第3回:Butch
Cassidy(ブッチ・キャサディ)更新日2006/10/19
ブッチの足跡を辿るためにピックアップトラックを転がし辺境を訪れたとき、打ち捨てられたモルモン教徒の開拓時代の小屋をあちこちに目にし、モルモン教徒に対して、「お前たち、ようやるな〜」と半ばあきれ、感心しながらも尊敬の念を抱くようになってしまった。そんな小屋の裏地にある墓地には、“”肺炎のため病死”とか“ガラガラヘビ咬まれて死ぬ”、“さそりに刺され3歳の命、神の御許に召される”などと書かれた粗末な木や、型に切っていない荒い石の墓標が傾いたまま残っていたりする。幼児死亡率は非常に高かったようだ。
1850年代にモルモン教は新大陸からヨーロッパへ布教され、イギリスですでに組織された教団になっていた。ブリガム・ヤングが新天地、Zion(理想郷を意味する。ダビデが神殿を建てたシオン山になぞらえている)をアメリカに築くため、教徒たちに移民を募集したとき、ブッチの祖父はイギリスのランカシャーの織物工場の職を辞め、私財を売り払いユタへの移住団に参加した。ブリガム・ヤングは、意図的にヨーロッパの腕に技術のある職人をリクルートし、ユタ(当時は州になっておらずテレトリーと呼ばれていた)だけで自給自足が可能な独立国を目指していたようだ。
ブッチはこの祖父の名前、ロバート・パーカー(Robert
Parker)を譲り受け、名づけられた。彼の祖父がアメリカに渡り、アイオアシティから“マッカーサー移住団”に加わったとき、ブッチの父親、マキシミリアン(Maximillian)は12歳だった。マッカーサー移住団は1,700キロにおよぶ荒地やロッキーの山々を徒歩で歩き通しソルトレイクシティに達した。
母方の方もイギリスから渡ってきたモルモン教徒で、ブッチの母が9歳のとき“マーティン荷車移住団”とともにソルトレイクシティに向かった。この移住団は凄惨を極めた。ワイオミング州のスイートウォータ峡谷で例年より早く訪れた冬将軍に足止めを喰らい、ソルトレークシティからの救援を待つことを余儀なくされたのだった。

全米地図

拡大地図
今日でさえ北アメリカ大陸を南北に走るロッキー越えは、夏でも厳しい。3,500〜3,600メートルの岩だらけの峠を登らなければならず、旧道は冬期間閉鎖される。いくつかのパイオニア時代のロッキー越えルートを私も徒歩で辿ってみたことがあるが、夏ですら夜間は氷点下を下回り、8月初めに猛吹雪に襲われたこともある。そして岩場でのキャンプは体を伸ばして寝る平らな場所を見つけるのが難しいだけでなく、鋭角にそぎ落とされ冷え切った岩や石が体に突き刺さるように体温を奪い、現代のキャンピングギアを使っていてさえ、厳しいものがあった。
ロッキー山脈を東西にくり抜き、3キロにおよぶアイゼンハワー・トンネルが貫通し、主要幹線のI-70号線ができたのは1973年のことだし、それもやっと片面開通だった。両面開通は1979年になってからのことで、それでもなおかつ、3,600メートルの山道を登る峠越えをしなければならない。
ブッチの母方の祖父母、ジリーズ(Gillies)家はスイートウォータ峠の手前で例年より早い寒波に襲われた。そこで576人のマーティン荷車移住団のうち150人が飢えと寒さで弱った体に襲った肺炎、感冒で命を落としている。
母方の一家(こちらの祖父もロバートという大工、建具屋だった)は、祖父ロバート(Robert)36歳、
ジェーン(Jane)35歳、モリーニ(Moroni)10歳、アン(Ann;ブッチの母)9歳、ダニエル(Daniel)7歳、クリスチャン(Christian)3歳と移住の記録にあるが、ブッチの妹であるルラ・パーカー・ベテンソン(Lula
Parker Betenson)が書いた『Butch Cassidy my brother』によると、アンではなく アニー(Annie)が正しく、クリスチャンではなく女の子のクリスチーナ(Christina)だと、モルモン移住の記録の間違いを指摘している。なにはともあれ全員無事に救済され、11月30日にソルトレイクシティに到着している。家族に死者を出さなかった事実だけでも祖父母の統率力を示す明かしになるだろう。
ソルトレイクシティのモルモンテンプル広場には、およそ大陸横断にふさわしくない荷車で超人的移住を成し遂げた人々の追悼記念の銅像がある。モルモン教徒の移住は大八車のような人間が引く荷車で行われた。もともとヨーロッパの職人たちが馬や牛の扱いに慣れていなかったという要素もあるが、馬と幌馬車を買うお金がなかったのが実情だろう。西部開拓史といえば白い幌をかぶった幌馬車と相場が決まっていると思い込んでいたのだが、とんでもない思い違いだった。この悲壮ともいえるモルモン教徒の荷車移住は、1856年から1860年にかけて都合10回行なわれ、総計2,962人が移民し、250人ほどが命を落としている。
マーティン荷車移住団の悲劇は、マーティンの経験や統率力の問題ではなく、大陸の真ん中で急に激しく変化する山の気候、何十年に一回あるかないかの早い冬将軍に襲われたのが不運だったと言ってよい。このルートはすでに何度も使われていた。また、ブリガム・ヤングが1847年に一人の犠牲者も出さずに渡った時に、同行したクレイトン(William
Clayton)が、翌年1848年にガイドブックというかルートの手引書を出版しているので道に迷う可能性はほとんどなかった。
この移住のための『モルモン・トレイル・ガイドブック』は記述が明確で、目だった岩や景観、河を渡る地点と川の深さ、キャンプに適した場所に加え、標高、緯度、経度も要所要所正確に測定し記録している。次の目標地点までの距離もほとんどが5、6マイル以内に置かれ、この本を片手に移動している人たちにとって励みになると同時によい指針になっている。また最終目的地ソルトレイクシティまでの距離もカウントダウン方式で“あと何マイル”と記載されている。

クレイトンのガイドブック
毎年、このモルモン・トレイル(ほぼ平行して走るオレゴン・トレイルの方が人気があるようだが)を歩くツアーが盛況だ。私は車道がトレイルと交差するような場所まで出向き、トレイルにおさわり程度に足を踏み入れただけで、トレイルを全行程歩いたことはない。そんなところにも明らかに墓標だと思われる石があちこちにあるのだが、その石がのっぺらぼうで何の文字も刻まれていないのだ。引っ掻いた傷のような判読できないものもあるにはあるが、大半はただ平らな石を立てただけのものだ。たかだか150年くらいで風化するはずもなく、明らかに初めから何も刻まなかったようなのだ。
後日、ブリガミ・ヤング大学やユタ州立大学の図書館から、モルモン・トレイルに関した資料を送ってもらって(宗教家というのか、大学の研究者というのか、その両方を兼ね備えた人物の緻密な研究には頭が下がるというよりもあきれ返ってしまった。またその量も気が遠くなるほどで、目を通す気も失せるほど膨大なのだ)分かったことだが、鉄道が敷かれた1868年までの22年間に(モルモン教徒だけではないが)当時、鉄道が来ていたアイオアシティ、またはインデペンダンスから西へ向かったパイオニアのうち、なんと6,000人が命を落としていると算出している。集団で移動しているうえ、冬が迫る前に移住を終え目的地に着かなければならず、墓石に名前を刻む時間もなかったというのだ。
(『Handcarts
to Zion by Hafen』、 『The Mormon Trek to West by Joseph E. Brown』に詳しい)
…-つづく
第4回:Butch
Cassidy その2

