アメンボのスイスイ
スイスイは川やいけの水のうえにうかんで、水のうえをスイスイと、まるで氷のうえをスケートですべるようにしてうごきまわることができる、アメンボの子どもです。
みなさんは、水のなかにはいったら、しずんでしまいますよね。およげる人は、なんとか水のなかでうかんでいることができますけれど、水のうえを歩いたりは、とてもできません。なのにスイスイは、スーイ、スーイと、水のうえにうかんで、うごきまわることができるのです。すごいですね。
そんなことができるくらいですから、スイスイのからだはとてもかるくできています。どういうからだかといいますと、小さくてほそくてみじかいきのえだのようなどうたいから、ものすごくほそくてながいハリのようなあしが、どうたいのみぎがわにさんぼん、ひだりがわによんほんはえています。ぜんぶでろっぽんです。
あしのさきには、とてもこまかな、よく見なければみえないような、みじかい毛がたくさんはえていて、それは水にはぬれないようになっています。ぬれないということは、水をはじく力があるということです。その力がよりあつまって、スイスイのからだをもちあげる力になります。
水というのは、ちいさなちいさな、水のぶんし、というものがあつまったものです。すいどうの水も、雨も、海の水も、みんなそうです。もちろんそのなかにはいろんなものがまじっています。海の水がしょっぱいのは、しおがまじっているからです。
水のぶんしは、そばに水のぶんしがいると、しっかりと手をつなぎあいます。たくさんの水のぶんしがいれば、みんなでしっかりと手をつなぎあいます。空からおちてくる雨が、ひとつぶひとつぶのまあるいつぶになっているのは、雨のなかの水のぶんしたちがしっかり手をつなぎあっているからです。
コップのなかの水も、そうして手をつなぎあって、ひとかたまりの水になっています。川の水も、海の水もそうです。コップのなかの水のひょうめんがたいらになっているのも、水のぶんしたちがみんなでしっかりと手をつなぎあっているからです。
みなさんがうすいぬのをりょうてでひっぱると、ぬのがまっすぐたいらになりますね。それは、ぬのをつくっているいとといととが、みなさんがひっぱる力とおなじくらいの力で手をつなぎあっているからです。
そのぴんとはったぬのの上にいとくずのようなかるいものをおとしても、ぬのはやぶれません。けれども、びーだまをぬのの上にのせると、びーだまのおもさでぬのが少ししずみこみます。もっとおもいものをのせると、やぶれてしまいます。
それは、ぬのをつくっているいとといととが手をつなぎあっているその力は、糸くずのおもさをのせるくらいはだいじょうぶですけれども、あまりおもいものだと、そのおもさにまけて、てをはなしてしまってぬのがやぶれてしまうのです。
水もおなじです。水のうえに糸くずをのせると、糸くずは水のうえにうかびます。でもよく見ると、糸のおもさのぶんだけ、水のひょうめんがへこんでいるのがわかります。水のぶんしががんばって手をつないで糸のおもさをささえているからです。もっとおもいものだと、ささえきれませんから、おもいものは水のなかにしずんでいきます。
でも、かるいものなら水のうえにうかべる力を水のひょうめんはもっています。この力を、ひょうめんちょうりょくといいます。水のぶんしたちが手をつないでひっぱりあっていることでできる力のことです。
水のことをくわしくおはなししたのは、スイスイが水のうえにうかんでいられるのは、このひょうめんちょうりょくという力をりようしているからです。がっこうでならったわけでもないのに、そんなことをしっているというのは、すごいですね。しぜんというのはほんとうにふしぎです。水にも風にも光にも、いろんな力があって、そしてその力を、しょくぶつやどうぶつやこんちゅうたちは、とてもうまくつかいます。
しぜんのなかには、水のなかをおよぐさかなたちがいます。風やくうきをうまくつかってとぶトリやチョウチョもいます。そんななかでアメンボは、およぐのでもとぶのでもなく、なんと、ひょうめんちょうりょくをりようして、水の上をスイスイあるくという、とてもおもしろいいきかたをあみだしました。
いつどうしてだれがそんなことをかんがえついたのでしょう。もしかしたらスイスイのおじいさんのおじいさんの、そのまたおじいさんのアメンボのせんぞのだれかが、むかしむかしに、たまたまそうしたいとおもったのかもしれません。それができたらカッコいいなとおもったのかもしれません。どちらにしても、スイスイのせんぞのアメンボいちぞくのだれかがはじめたことなのでしょうね。そうしてアメンボいちぞくは、だんだんその生き方にあったからだつきになっていったのでしょう。
スイスイは、そんなせんぞとちきゅうのしぜんのおかげで、ろっぽんのほそいほそいあしのさきをうきわのようにして水のうえにうかんで、きもちよさそうに、水の上をスイスイうごきまわります。ほそくてながいあしがどうたいをバネのようにささえていますから、目も口もおなかも水からはなれて、すこしたかいところにあります。ですから水にぬれることはありません。それにむこうのほうまでみわたせます。小さなむしなどが、うっかり水のうえにおちたりすると、スイスイあるいていって、まえあしでむしをつかんでたべます。スイスイは、よんほんのあしだけでもうかんでいられるのです。
スイスイがあるくと、ろっぽんのあしのさきから、まあるい水のはもんがひろがります。あかるい光が水のうえでキラキラゆれて、とてもきれいです。そんなときスイスイは、うれしくなって歌をうたいます。
ぼくはスイスイ水のうえ。
アメンボいちぞくのスイスイだい。
水のうえをこんなふうに歩けるなんて
ぼくらくらいのもんなんだい。
ろっぽんのあしをヒョイヒョイヒョイとうごかして
すべるように水のうえをあるけば
ほらほらカガミのような水のうえに
じぶんのすがたがうつってみえる。
ぼくはスイスイ水のうえ。
アメンボいちぞくのスイスイだい。
-…つづく
第9回:ウミガメのユラリ