第六十三回<最終回>
風姿花伝 その七
別紙口伝 その十
そもそも因果というのは、良い面も悪い面もあるけれども、良く良く考えてみれば、ようするに、珍しいことと珍しくないことの二つがあるに過ぎない。同じ上手な演者が、同じ能を昨日と今日に続けて演じたとして、昨日は面白かったはずの舞いが、今日は面白くなかったとしたならば、それは、昨日は面白かったということが見る人の心に残っていて、そのために、今日は珍しくも目新しくも感じられないので、悪く映るからにほかならない。その後で、また良かったと言われることがあるとすれば、それは以前にそれを見た人の心のなかに、あれはあまり良くなかったなあと思う心があるからで、しばらくして見てみれば意外に新鮮で珍しく、面白いと感じたりするものなのである。
したがって、この道を極め尽くしたと思える段階になって考えてみれば、花というのも、何も特別に、これこれこういうものであるというふうに定まったものとしてあるものではないが、奥義(おうぎ)を極め、すべてにおいて、珍しさ、目新しさとはなにかという理(ことわり)を自分自身の身をもって体得したものでなければ、感じさせることができないのが、花というものである。
お経でも、「善悪というのは二つの異なるものではない。邪と正とは一体のものである」とある。そもそも、良い悪いに、何かはっきりした基準のようなものがあるものでもない。場合によって、たまたま人の役にたったとすれば、それは良いものであり、役に立たなければ悪いとされるにすぎない。したがって、能におけるさまざまな演目も、それがもたらす風情も、常にこの世に生きている人々が、さまざまな場所で、その時々に応じて、またいろいろ人によってことごとく異る好みに応じて、さまざまに醸し出されるものであるが、大切なのは、花というものは、そうした人々の役に立ってこそのものだということである。
かりにここに、この能という技芸を楽しむ人がいたとして、またどこかに、私が演じる能を褒めてくれる人がいたとして、それはその人その人の、心のなかに花を咲かし得たということにほかならない。その花のありよう咲きようもさまざまであって、どれが本当の花で、なにが本当ではないか、などというようなことはない。ただただ、その時に応じて、人の心の役にたったと感じてもらえるそのことこそが、花であると知るべきである。
この別紙口伝は、この能という技芸を代々伝え行ってきた我が家が知っておくべき最も大切なことを、代々家を受け継いでいく、その人一人に伝え置くものである。ここに書き記してあることは、たとえ一字たりとも、これを受けとる器量を持たないものに伝えてはならない。
「家、家にあらず、継ぐ人をもって家とする。人、人にあらず、知るをもって人とする」。
これこそ、すべての徳や技芸の至高の妙花を極め伝える秘訣である。
なお、この別紙口伝は、先年、弟の四郎に伝えたものであるけれども、元次もまた、技芸、芸能というものが何かを良く知るものであるので、ここにあらためて伝える秘伝である。
応永二十五年六月一日 世阿
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