第五十回
風姿花伝 その七
別紙口伝 その一の一
この口伝で言いたいことは、花を知るというのはどういうことか、ということであり、またなぜすべてを、花が咲くことにたとえたかという、その理由をわかってもらいたいからである。
そもそも花というのは、万木千草が、四季折々に咲かせるものであり、時を得て咲くその妙味、珍しさで心を惹くからこそ、人を喜ばせ、慰さめることもできるのであって、申楽もまた、人がそれを観て、目新しく素晴らしいと心に映ることが大切であり、面白いというのはそういうことである。花、面白い、珍しい、この三つの心根は同じであり、どんな花も、咲いて散らずに残るような花はなく、散るからこそ、咲いたその時が素晴らしく思えるのである。能の場合も同じで、いつでも同じように演ずることにこだわるのでは無いということが、花を知るということにつながるとわきまえるべきである。型や形を極め維持することにこだわらずに、そうではない風体に、すなわち演じかたが常に変化するからこそ心に新鮮に映るのである。
ただしそれにはやりかたが自ずとあって、ただ珍しければいいというようなものではなく、この世に存在しないような風体をしてはならない。この花伝で言ってきたようなさまざまなことを、みんなちゃんと練習をして習得し、いざ本番で申楽を演じようとするときに、習い覚えたざまざまなことが、そのときどきで、必要に応じて出てくるようでなければならない。
つまり花というのは、どんな草木であっても、四季折々の時に応じて咲く花に勝る素晴らしさはなく、それと同じように、習い覚えたことをみなちゃんと極めれば、そのときどきの、時に応じたふるまいを心得てそれを用いることもできるし、観ている人の好みに応じて、それに合った風体を、習い覚えたことのなかから、自在に引き出してくることもできる。そうなってはじめて、花が時を得て咲くような能になり得る。
また花といっても、それは去年咲いた花が宿した種から生まれたものであり、一つひとつは、同じような姿形をしているはずだけれども、しかし時に応じて次から次へと咲くことによって、花はそのつど珍しいものとして新鮮に映る。つまり、たくさんの技や形や演(や)りようを極めれば、次々にことなる風体を見せることができるので、それは常に観る者の目に珍しく新鮮に映るのである。
|