第四十九回
風姿花伝 その六
花修云(かしゅうにいわく) その四の二
また為手のなかには、上手な割には能を知らない為手もいれば、それほど上手でもないのに能というものを良く知っている為手もいる。貴い舞台や晴れ舞台などで、上手だけれども、間違って能を演じてしまったりするのは、能を知らないせいである。また、それほど達者ではなく、技もそれほどではない為手、つまり初心者ともいうべき為手が、紫宸殿などの前の大庭で演じても花を失わず、観客からさかんに誉めそやされたりして、演技にむらがなかったりするのは、為手としての上手さというより、本質的な意味で能を良く知っているからである。
この両方の為手に関して言うならば、そうしてどんな大切な晴れの舞台であっても、常に良い能をするならば、その為手の名声は長続きするであろうし、上手ではあっても、その達者ぶりの程には能を知らない為手よりも、少し至らぬ為手であっても、能を良く知る為手の方が、一座を起こし率いる棟梁には向いているといえる。
能を良く知っている為手は、自分自身がやっていることで至らないことも知っているがゆえに、思うように出来ていない点を考えて、上手くできることがより表れるように能を仕立てることが出来るので、観客からいつも褒められ、褒美をいただけるような能を行うことができる。
そうして未熟なところを、目立たぬように、またさほど重要ではないように常に見せることができるように練習すべきであり、そのようにして稽古に精進すれば、やがて自然に上手くできるようになる時分がやって来る。そうするうちに能の大きく威厳のある能ができるようになり、余計なものも落ちて、そのうちに名声も得て、一座が繁昌するようにまでなるならば、その名声は定着し、老年になるまで花を残す為手になることができる。これは初心の頃から能を良く知るからであり、その心で苦心を重ねれば、花の種のようなものはおのずと見えてくる。
しかしながら、この二つの能のありようというものは、なんといっても人の心のありようから来るものであり、そこに勝負の分かれ目があると思い定めるべきである。
花修已上
ここで述べた諸々のことは、能を志す芸人でなければ、決して見てはならない。
世弥
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