第四十八回
風姿花伝 その六
花修云(かしゅうにいわく) その四
また能を演ずる場合には、どのような能をやればよいかは、為手の位、すなわち為手が何をどこまで出来るかということを考えるべきであり、あくまでも演者に相応の曲を選ぶべきだということをしらなければならない。曲に書かれている言葉や動作がそれほど際立ってはいなく、大様であまり目立たないような曲であっても、本説ともいうべき主題がしっかりしていて、ひときわ風格のある、位の高い能というものもあって、そのような能の場合は、見どころもそれほど目を引くものではなかったりするので、よほど上手な為手であっても、相応しくない場合がある。
たとえ、それを舞うに相応しいような無上の為手であったとしても、客が目利きであったり、それに相応しい晴れ舞台でなければ、その良さが十分にうまく醸し出
されることは難しい。こういったことは、能の位、為手の位、目利きの存在、演じる場所や時分などの全てがそろわなければ、その良さがそれほど上手く表現できるものではない。
また、小振りの能で、出所がそれほどしっかりした曲でなくても、繊細な幽玄を表現できる能がある。こういうものは、初心の為手であっても、演じるに相応しい場合がある。演ずる場所も、自然の中や、田舎や、夜の庭などで演じるのが向いていて、それなりの観客や為手も、そのような場所で演じると、なんとなく上手下手の判断が曖昧になるもので、そこで面白いと思われ、その印象のままに、大舞台や晴れ舞台や身分の高い貴人の前、あるいは、贔屓すじに求められての舞台で演じて、思ったよりも上手く演じることが出来なくて、為手の名折れになったり、場を設定した者も面目を失ったりすることがある。
つまり、曲の良し悪しにかかわらずどれも上手く演じることが出来るほどの為手でなくては、無上の花を極めた為手と言うべきではないし、逆に、どのような客の求めにも、ちゃんと応じることが出来るような為手であれば、曲の良し悪しというようなものは、さほどない。
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