第四十七回
風姿花伝 その六
花修云(かしゅうにいわく) その三の四
また本木(もとぎ)を書く場合の心得として、たとえどんなに小さく発したとしても、言葉には響きというものがあり、たとえば、「靡(なびき)」「臥す」「かへる」「寄る」といった言葉は柔らかなので、自ずと、聴く人の心に、余韻、余情としてのこる。また、「落つる」「崩るる」「破る」「轉(ころ)ぶ」というような言葉
は、強い響きを持つ言葉であって、自ずと、そのための振りも強くある必要がある。
つまり、強き、幽玄、というようなことは、それ自体が独立して個々にあるようなものではなく、単に物まねが素直に為されることで表れるものであり、弱き、荒きは、物まねから外れることによって生じるものだと承知すべきである。こうした配慮こそが重要であって、作者は、能の始まりの発端の句や、演者が登場する際、あるいは、舞を舞った後の謡である一声、すなわちそこで詠まれる和歌などに、それにふさわしい物まねをあてがうべきである。いかにも幽玄であるべきところで、それにつながる余情や、そのための言葉が必要なところに、荒き言葉を書き入れ、必要以上に思い入れて、梵語や、漢の音などを入れたりするのは、作者の過ち、すなわち僻事(ひがごと)である。また、言葉のままの動きをした場合に、人の体にとって不自然な動作になる場合があるけれども、能に堪能な演者であれば、その違いを心得て、何とか上手く、不自然に映らないようにするべきである。そうしてこそ、上手な為手ということが出来る。もしそこに、為手の心が入らないようでは、論外だと、心得るべきである。
また、能に演目によっては、それほど細かな、言葉や筋や道理である儀理(ぎり)にこだわらないで、大ざっぱに演じた方が良いものもある。そのような能の場合は、素直に滑らかに演じ謡い、動作もさりげなくなだらかにすると良い。そのような能を事細かに演ずるのは、下手の為手がやることである。これもまた、能が下がる原因となると心得るべきである。つまり、良い言葉や、余情なども、儀理やここぞという見せ場のある能であってはじめて必要なことであって、素直な能の場合は、たとえ幽玄を表す動作のときに、硬い言葉を使ったりしても、音曲とのかねあいが良い場合は、良しとすべきである。それが能というものの本来のありようである。ただ、繰り返して言うが、こうしたことを極め尽くしたうえで、なお大ざっぱにできるようでなければ、能を演じる家の家訓である庭訓(ていきん)を体得しているとはとても言えない。
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