第十一回
風姿花伝 その二
物學(ものまね)のいろいろ
老人
老人の物學(ものまね)は、この道の奥儀(おうぎ)といってよい。能の位(くらい)というものは、どうとりつくろったところで、自ずと外目に現れるが、老人の物學(ものまね)の善し悪しは、見ていてすぐに分るものなので、とりわけ大事にしなければならない。
とにかく、能をよほど極めたといえるような為手であっても、老いた姿に関しては、ちゃんと会得していない人が多い。たとえば、木樵(きこり)や潮汲みの老人の態(わざ)ものなども、老いた翁の姿に似せてあるのを見て、それで上手くできているなどと評するのは誤った判断であって、頭にかぶる冠(かぶり)や、貴い人の直衣の(うしや)烏帽子(えぼし)、あるいは、もともとは高貴な人々が狩りをするときの衣裳であったけれども、最近は礼服として用いられる狩衣(かりぎぬ)などを身にまとった老人の姿などというものは、よほどそれに見合った人でなければ、決してそれらしくは見えず、長年の稽古を重ねて、能の位そのものが上にある人でなければ似合うものではない。
なおかつ、それに加えて花がなくては、観ていて面白くもない。大体において、老人の立ち居振る舞いというものは、年老いているわけだから腰や膝をかがめ、体もちじこまっているので、花も失せ、なにやら古くさい感じを与えて、どうしても見所には欠ける。
そこで、基本的には、とにもかくにも見苦しさを感じさせない、しとやかな立ち居振る舞いをしなければならない。だから老人の舞いというのは、このうえなく大事にしなければならないものであって、花はあるけれども年よりに見えるよう工夫をして、それには何が必要かということなどをよくよく公案し、そのためにはどうすればよいかということを細かに伝える先達の口傳(くでん)などもあるので、そのようなことも習わなければならない。つまり、老人の物まねというのは、枯れ木に花を咲かせるようなものだと言ってよい。
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