第11回:Butch Cassidy 開拓時代の西部事情
更新日2006/12/21
1880年代の西部、ロッキー山脈の西、オレゴントレイルの南とサンタフェトレイルの北に拓けた広大な地域は、地図の上でも白紙の状態で、土地は誰の物でもなかった。もともと土地所有観念のないインディアンからアメリカ政府がだますようにして取り上げ、それをほとんど無償で開拓民に与えていた。大陸横断鉄道が完成した1868年でも、開発が進んだのは線路沿いの町に限られ、西部、とりわけロッキー山脈の西側のコロラド、ユタ、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの大部分には馬車の走れる道すらなかった。
1800年の終わりまで、コロラド川の流域ですら正確な測量はなされていなかった。1869年と1871年に片腕の大将パウエル(*1)がグリーンリバーとコロラド川を2度に渡って下り、正確な測定をするまで川筋さえ明確でなかった。大雑把にインディアンの種族を地域ごとに色分けしている地図があるだけだった。

パウエルが使った舟のレプリカ。この渓流下りには、
現在のチューブ式のラフトでさえも危険なラフティングの
カテゴリー5(最も難しい)の箇所が目白押しに並んでいる。
パウエルは舟こそ一隻沈めたが、人名を失うことなく
激流をこのような舟で5ヶ月かけて乗り切った。
政府から広大な土地を貰い受けたのは、牛の男爵(バロン)と呼ばれる、銀行と結びつき豊かな資金を持った大地主だった。一族郎党が四国ほどの土地を所有し、100万頭とも言われる牛を扱っていた例もあるほどだ。何百頭、何千頭単位の牛を追いながら鉄道の来ている集積地までインディアン襲撃を受けながら何百マイルもの距離を運ぶ、勇壮なハリウッド的カウボーイの時代である。
一方、ブッチの家族のような開拓部落での小規模な牧畜は困難を極めた。今でも国有林の中にフリーランチ(Free Ranch)と呼ばれる、基本的には誰でも牛を放牧できる広大な土地がある。秋の終わりに、フリーランチから牛を追い出し、牛の尻に押された焼印でどこの牧場所属の牛かを選別する。これをラウンドアップ(Round
up)と言う。炊き出しがあり、村総出の一大行事だ。
春に生まれた無印の子牛は付き従っている母牛によって判断する。こう書くと誰でもがフリーランチを利用でき、公平なシステムのように聞こえるが、実際、何千、何万の牛をすべて正確に判別できるわけではないし、急峻で複雑に入り組んだ谷や4,000メートル級の山々の裾に放牧されていた牛のすべてを駆り出しラウンドアップするのは不可能なことだ。ラウンドアップの後にも相当数の牛がフリーランチに残された。ここに牛泥棒が付け入るスキが生まれる。
大牧場主は、数十人から100人以上のカウボーイをこの日のために雇い入れ、ラウンドアップを行うが、開拓部落民はせいぜい男手3、4人参加できればよい方だった。多勢に無勢、加えて牛の哀しい習性で多くの牛の移動する方に、すべての牛が寄り集まってしまうのだ。泣きを見るのはいつも、小規模な自作農の方だった。ここにも大牧場主対貧しい自作農の争いが繰り返し映画化され『シェーン』のようなハリウッド的図式で存在する。ジョンソン群戦争はその典型といってよい。(*2)
また、鉄道が走っている牛の集積地駅まで自作農が牛を移動させるのは難しく、"牛男爵"と呼ばれる大牧場主に市場を独占されるままになっていた。牛を買い入れ、東部に貨車で輸送する肉牛の業者も、牛の尻に押された焼印(ブランド)に注意を払わなかった時代だ。ともかくここまで運んできた牛なら何でも買ってやる、東部やシカゴに送って肉してしまえば誰に分かるものか、という需要一方のマーケットだった。それも牛泥棒の活躍を助長した。どんな焼印を押してあろうが、ともかく集積地の駅まで牛を追い込めば、それを買ってくれる業者を見つけるのは容易なことだった。
一方、馬の方も、相次いで見つかったコロラドの金山、銀山での需要が天井知らずで、鉱山のキャンプ村まで運びさえすれば言い値で売れた時代だった。馬は牛のように尻に焼印を押すことは少なく、一頭一頭の特徴を書き、売買するときの譲渡証明が必要だった。その証書は馬が転売されるごとについて回り、どこどこ産で父馬、母馬は誰それと分かるようにはなっていた、がワイルドウエストのことだ、格別優れた馬でもない限り、耕作馬、馬車馬、駄馬、ロバと掛け合わせたミュールの所有権証には一般的記述しかなく、"栗毛の7歳馬"は何十頭も居たに違いない。また所有権証、売買証の偽造も盛んに行われていた。

ヘンリーマウンテン。
高原砂漠の中から突き抜けるようにそびえ立っている。
西部のソロー(Henry Thoreau『森の生活』の著者)と
言われるエドワード・アービー(Edward Abby)の
作品の舞台にもなっている。
ヘンリー山の麓にブラウン大尉(Captain Brown)が取り仕切る大規模な馬泥棒の基地があった。小物の牛、馬泥棒はブラウン大尉のもとへ盗品を運び込みさえすればよかった。またブラウン大尉が牛や馬を移動させるとき、地元の貧しい自作農たちは喜んで、自分の牧場を中継地として提供した。自作農にしてみればブラウン大尉の牛馬を2、3日休ませ、水と飼い葉を与えるだけで、良い現金収入になったのだ。
ブラウン大尉などの泥棒軍団も貧しい自作農から牛馬を盗むようなことはしなかったし、口止め料込みという意味合いもあり、過大な謝礼を置いていった。もっとも小規模な牧場主がブラウン大尉の泥棒軍団の要求を拒否して自分の所の数少ない牛馬を持ち去られる恐怖心からノーと言えない事情もあったことだろう。
おまけに、州ごとに妙な独立独自の権威主義があり、一度州境を渡ってしまえば隣の州で何をどのように売買したか、盗んだかは問題にされない土壌があった。今では、主なハイウエイの州境に必ずポート・オブ・エントリー(Port
of entry)出入境管理事務所?)がある。州ごとに消費税、酒税、タバコ税が異なるので、たとえばオレゴン州などの消費税が無い州から消費税の高い州への流通をコントロールしているのだ。大型の貨物トラックは州境でのチェックインが義務付けられている。
ブッチの師匠マイクは頻繁にブラウン大尉のもとへ出入りしていたし、ブラウン大尉もブッチが働いていた、マーシャル牧場に足を止めているのでブッチとブラウン大尉が知り合いだった可能性は大いにある。
*1:John Wesley Powell_若いときから川に魅せられ、22歳でミシシッピー下り、23歳でオハイオ川を漕ぎ下り、翌年はイリノイ川の探検している。1860年に南北戦争に北軍として参戦、ピッツバーグランディングの戦いで右腕を失くす。しかし、また参戦する。終戦後、地理学的探検に返り、1869年、1,000マイルに及ぶグリーンリバーからコロラド川に至る川筋を木造のボートで約4ヶ月かけて下る。1871年の、前回の測定不足を補うため再度川を下る。グランドキャニオンの上流にある巨大な人造湖、パウエル湖は彼の名にちなんだもの。
*2:ワイオミング州の北部、ジョンソンカウンティーで自作農Nate
Championとシャイアン牛貴族と呼ばれた"大牧場主、男爵"Frank Wolcottたちの連合との戦い。大牧場主連合はテキサスから50人のガンマンを雇い入れ、キャビンに立て篭もっていたNate
Championら3人を虐殺した。
…-つづく
第12回:Butch
Cassidy 旅立ち

