第30回:少し長めの蛇足_ジョンソン郡の戦争 その1
更新日2007/05/17
大牧場主と小規模な自作農との戦いは、数多くの映画や小説となり、語りつがれている。ジョンソン郡の戦争にその典型を見ることができるので、少々歴史のお勉強風になるのを覚悟で、時代背景、補足的説明をしておく。
シャイアン牧畜貴族たちと自作農の軋轢は古くからあったが、列車がワイオミングに敷設され、牛の商品価値が増したころから過熱してきた。肉牛は広大な土地に(政府が書類上だけで土地所有観念のないインディアンから取り上げたのもだが)放牧され、通常、年に1回春先に行われるラウンド・アップ(牛を狩り集める)の時、牧場主たちが総出で集めた牛を判別するのだが、多勢に無勢で大牧場主は人手に任せ、小牧場主の牛を森や山の奥に蹴散らし、自分の牛だけを狩り集めるのが当たり前になっていた。
彼らに言わせれば、何のためにわざわざ、あいつらの牛まで追わなければならいないのだ、ということになる。一方自作農たちは、ラウンド・アップの時に広大な公有地、国有林の隅々まで回り自分の牛を集めることは、物理的に不可能なので、決められたラウンド・アップの期日以外の日にも牛を5頭、10頭と集めては自分の牧場に追い込んでいた。その中に自分の焼印、ブランドを押されていない牛や迷い牛が"偶然"混じってることがよくあった。
公共の放牧地に放たれている牛の方は、焼印ブランドを押されてどこの牧場の所属かはっきり分かるようにはなっていた。が、大地主の雌牛が自作農の牡牛に恋をし、赤ちゃんをはらむことまでは管理のしようがなかった。とりわけ春の出産期には子牛が一斉に増え、混乱した。子牛は母牛に付き従うので、誰の物か判断できるのだが、迷い子牛はいつもかなりの数に及んだ。
明文化された決まりでは、ラウンド・アップの日以外に公有地から牛を狩り出すことも、自分のブランドを押されていない牛を狩り集めることも違法行為だった。大牧場主はそれを牛泥棒とみなした。
ラウンド・アップの時、一つの牧場から参加するユニットを"ワゴン"と呼ぶが、1883年のパワー・リバー・ラウンド・アップ(ジョンソン郡のホール・イン・ザ・ウォール近くに位置し、後述するネイトの所属する放牧地)に参加した自作農ワゴンは23組あったが、1887年にはたった4組に減少している。その間に小牧場主がにいかに多く土地を離れたかを示している数字だ。
また、雨量の少ないワイオミングでは、水の権利が争点になっていた。お金のかかる大規模な灌漑用水路を引けるのは銀行と結びついた大牧場主だけだった。もともと先に入植していた多くの自作農は水のあるところ、クリークが走っているところに居を構えたが、大牧場主が灌漑工事をし、自分の牧場の方に水を引いたことで、泉やクリークが枯れはじめた。水は大牧場主にとって、良い土地を先取りしてた自作農どもを締め上げ、追い出す有効な武器だったのだ。
大牧場主連合のトーランド牧畜会社は、自作農の牛が入ることができないように公有地の一部、一辺が15マイル四方を柵で囲むことさえしている。完全な違法行為である。
シャイアン牧畜貴族は、田舎町に不相応なバロック風ともロココ風ともヴィクトリア風ともつかない回顧趣味の壮大なシャイアンクラブハウスを中心に動いていた。

シャイアンクラブは焼失し、今はこのようなプレートだけ残っている。
クラブのメンバーの多くは自分が所有する広大な牧場に行ったこともなけば、目にしたことすらなかった。彼らは、当初、自作農どもに多少圧力をかけ、お金を払えば立ち退くと軽く考えていたようだ。実際、圧力に負け自分が開拓した土地、牧場を引き払い、立ち去った自作農が多かった。
が、自分の開墾したした土地にしっかりと根をおろし、そこから、いかなることがあっても離れない覚悟を持った自作農もいた。ネイト・チャンピオンは1857年 テキサス州のラウンド・ロック近くの牧場で生まれた。何千、何万の牛をテキサスからワイオミング州に移動させた1870年から1880年代にかけて、このジョンソン郡のケーシー(Kaycee)に渡ってきて、そのまま居ついたのだった。この雄大な牛を追っての長旅でネイトはすでに、トップクラスのカウボーイとしての評判を得ていたし、指導力は誰しも認めるところだった。大地主の脅しや懐柔に乗る人物ではなかった。
ネイト(Nate Champion)はKC牧場に200頭の牛を飼っていたが、これは自給自足に近い生活でどうにか食べていける規模だった。このような小規模牧場主たちは寄り集まり、WFSGA(Wyoming Farmers
& Stock Growers Association) を作り、ネイトはその年の5月からその協会の代表になり、パワー・リヴァーのラウンド・アップには全体を取り仕切るキャプテンになることが決まっていた。
この自作農組合、WFSGAはよく"赤腹巻のギャング"(Red Sash Gang)と混同される。腹巻と訳したがズボン、シャツの上から巻いた幅の広い布製の帯で、今でも礼装のとき締めている。
西部のセンセーショナルな記事を東部の新聞が争って載せ始めた時代だった。組織だった牛泥棒団を"レッドサッシャギャング"名づけ、その中心人物がネイトだと書きたてたが、そのような組織だった牛泥棒団は存在しなかった。小規模な個人経営の牧場主、WFSGAのメンバーの多くは"迷い牛"を自分の牧場に連れて帰るようなことはしていただろうが。

ワイルド・ビル・ヒコック。
赤い腹帯を愛用したといわれる、ワイルド・ウエストに君臨した
伝説的シェリフ。カンサス州、アビリーンのシェリフを務めた。
牛に追われるスペインのパンプローナの牛追い祭りならいざ知らず、牛を集め、追い込む自作農が申し合わせたように、赤い腹巻などするわけがないのだが、ネイトが殺されたとき赤い腹巻のような布を巻いていたとも言われ、ネイトの死後"赤い腹巻ギャング"の神話が作られた可能性が高い。
後日ワイルド・ビル・ヒコックやチャールス・ラッセルが赤い腹巻を流行らせ、伝説を作り上げていったのだろう。赤い腹巻は、いわば反体制、反大地主連合のシンボルになったのだ。
…-つづく
第31回:少し長めの蛇足_ジョンソン郡の戦争 その2

