枕草子 第十三回
その九の三 暗くなってから
暗くなってから、犬に食べ物をあげてみたけれど、ちっとも食べないので、私たちは、これはやっぱり翁丸じゃないわねと言って、もう、そのことについてあれこれ考えるのは止めることにした。
朝になって、中宮さまが、髪を梳かれたり、お顔を洗われたりなど、朝の身支度をなさる時には、私がお鏡を持ってお手伝いをしたのだけれども、見れば、例の犬が柱の隅にいる。中宮さまに、昨日は本当に可哀相でしたね、翁丸が、さんざん打ち据えられて死んでしまったなんて、本当に可哀相なことでした。今度この世に生まれてくるときには、何に生まれ変わってくるのでしょう。つくづく胸の痛むことでしたね、と私が言うと、そこにいた犬が、なんと、体をわなわなと震わせ、目から涙をボロボロ落とし始めたので、心底、びっくりしてしまった。
さてはおまえは翁丸ですね、きっとそうでしょう。昨日は、そうとはわからないように、翁丸ではない振りをしていたのでしょう。なんとまあ可哀相にと思ったけれども、同時に、なんだかそのいじらしさが、このうえなく可笑しくも思えてきた。お鏡を置き、犬を見つめて、おまえは翁丸だね、と言うと、犬がひれ伏して、さかんに泣き始める。その様子を見て中宮さまも、きっとほっとなされたのでしょう、たいそうお笑いになられた。
そこで内事の右近を呼んで、中宮さまがそのことを伝えると、右近にも女官たちにも笑いが溢れ、その声が帝の耳にまで届いて、なにごとかと、上さままでもがおいでになられた。話をお聞きになった上さまも、信じられないことだね、犬にもそんなことを考える心や知恵というものがあるのだね、と言って楽しそうにお笑いになられた。
上さまお付きの位の女房たちにも、騒ぎを聞いて集まってきて、翁丸と名前を呼ぶと、翁丸は、今度こそはとばかりにさかんに動き回る。
ご覧なさい、翁丸の顔がまだこんなにも腫れて、誰か傷の手当てをして下さい、と私が言うと、とうとうこの犬が翁丸だということが明らかになりましたねと、女房たちも笑いながら言う。
それを聞きつけた忠隆が、台盤所(だいばんどころ)の方からやってきて、本当に翁丸ですか、だったらもう一度ちゃんと見定めなければ、などと言ってきたので、私はあわてて、とんでもありません、そんな犬などいるわけがありませんと、側にいた女官にそう伝えるように言うと、忠隆は、そんなことをおっしゃられても、そのうち私の目に入ることですよ。隠そうとなされても、そうは行きませんよ、などと言ってよこす。
そうこうしているうちに、上さまのお許しもでて、翁丸は以前のように宮中で暮らすことになったのだけれども、それでも、憐れみの情をかけられたときに、体を震わせて泣いたことを思い出すと、ほんとうにありえないほどのことであるだけに、可笑しいような可哀相なような、人に言葉をかけられて泣いたりするのは、人間だけだと思っていたのにと、つくづく感じ入ったことでした。
※文中の色文字は清少納言が用いた用語をそのまま用いています。
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