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■現代語訳『枕草子』
  ~清少納言の『枕草子』を表現哲学詩人谷口江里也が現代語に翻訳
更新日2015/07/09



枕草子  第十三回

その九の三  暗くなってから

 暗くなってから、犬に食べ物をあげてみたけれど、ちっとも食べないので、私たちは、これはやっぱり翁丸じゃないわねと言って、もう、そのことについてあれこれ考えるのは止めることにした。

 朝になって、中宮さまが、髪を梳かれたり、お顔を洗われたりなど、朝の身支度をなさる時には、私がお鏡を持ってお手伝いをしたのだけれども、見れば、例の犬が柱の隅にいる。中宮さまに、昨日は本当に可哀相でしたね、翁丸が、さんざん打ち据えられて死んでしまったなんて、本当に可哀相なことでした。今度この世に生まれてくるときには、何に生まれ変わってくるのでしょう。つくづく胸の痛むことでしたね、と私が言うと、そこにいた犬が、なんと、体をわなわなと震わせ、目から涙をボロボロ落とし始めたので、心底、びっくりしてしまった。

 さてはおまえは翁丸ですね、きっとそうでしょう。昨日は、そうとはわからないように、翁丸ではない振りをしていたのでしょう。なんとまあ可哀相にと思ったけれども、同時に、なんだかそのいじらしさが、このうえなく可笑しくも思えてきた。お鏡を置き、犬を見つめて、おまえは翁丸だね、と言うと、犬がひれ伏して、さかんに泣き始める。その様子を見て中宮さまも、きっとほっとなされたのでしょう、たいそうお笑いになられた。

 そこで内事の右近を呼んで、中宮さまがそのことを伝えると、右近にも女官たちにも笑いが溢れ、その声が帝の耳にまで届いて、なにごとかと、上さままでもがおいでになられた。話をお聞きになった上さまも、信じられないことだね、犬にもそんなことを考える心や知恵というものがあるのだね、と言って楽しそうにお笑いになられた。

 上さまお付きの位の女房たちにも、騒ぎを聞いて集まってきて、翁丸と名前を呼ぶと、翁丸は、今度こそはとばかりにさかんに動き回る。

 ご覧なさい、翁丸の顔がまだこんなにも腫れて、誰か傷の手当てをして下さい、と私が言うと、とうとうこの犬が翁丸だということが明らかになりましたねと、女房たちも笑いながら言う。

 それを聞きつけた忠隆が、台盤所(だいばんどころ)の方からやってきて、本当に翁丸ですか、だったらもう一度ちゃんと見定めなければ、などと言ってきたので、私はあわてて、とんでもありません、そんな犬などいるわけがありませんと、側にいた女官にそう伝えるように言うと、忠隆は、そんなことをおっしゃられても、そのうち私の目に入ることですよ。隠そうとなされても、そうは行きませんよ、などと言ってよこす。

 そうこうしているうちに、上さまのお許しもでて、翁丸は以前のように宮中で暮らすことになったのだけれども、それでも、憐れみの情をかけられたときに、体を震わせて泣いたことを思い出すと、ほんとうにありえないほどのことであるだけに、可笑しいような可哀相なような、人に言葉をかけられて泣いたりするのは、人間だけだと思っていたのにと、つくづく感じ入ったことでした。

 

 

 

※文中の色文字清少納言が用いた用語をそのまま用いています。

 

 

 

 


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谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
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詩人、ヴィジョンアーキテクト。言葉、視覚芸術、建築、音楽の、四つの表現空間を舞台に、多彩で複合的なクリエイティヴ・表現活動を自在 に繰り広げる現代のルネサンスマン。著書として『アトランティス・ ロック大陸』『鏡の向こうのつづれ織り』『空間構想事始』『ドレの神 曲』など。スペースワークスとして『東京銀座資生堂ビル』『LA ZONA Kawakasi Plaza』『レストランikra』などがある。
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