方丈記 第七回
そのような窮状のなかで、離れ離れに生きることなどできない妻や夫を持つ者は、その思いが強いが故に、必ずのように相手より先に死んでしまう。それというのも、自分のことは二の次にして、相手を思い、相手を大切と思うあまりに、たまたま得られた食べ物を、自分が食べずに相手に食べさせてしまうからにほかならない。だから、たとえば親子であれば、決まって親のほうが、先に死んでしまう。ただそんなとき、母親の命が尽きてしまったことも知らずに、まだ幼い幼児が、なおも母親の乳を吸おうと、横たわる母親の乳に、同じように横たわったまますがっているのを見かけたこともある。
仁和寺(にんわじ)の隆暁法印(りゅうぎょうほういん)という人は、そんなふうにして死んでしまう人が数えきれないほどにいるのを悲しみ、そういう人を道端で見かけるたびに、その人の額に、梵語(ぼんご)の第一音であり、この世の全ては不生不滅であるという意味を表す阿字(あじ)を書いて、仏と縁を結ばせることを成された。そんな施しをした人々が一体どれほどいるのだろうと、四月と五月の二月をかけてその数を数えたところ、京極の西、朱雀大路の東のあたりの道端で四万二千三百余を数えた。言うまでもなく、その二月より以前に、あるいはその後に亡くなった人も多く、鴨川の河原や、白河、都の西や、そのほかの周辺も入れれば、際限ない程の数の死者がいたであろう。ましてや、京の都だけではなく、東海、北陸、山陰、山陽など、七道諸国の死者の数を、もしも数えたとしたら……。
祟徳院天皇の時代、長承の頃にも、このようなことがあったと言われてはいるけれども、それがどのようであったかは知るすべもない。いずれにせよ、この目で目撃した、このときの養和の世の惨状が、類い稀なものであったことは間違いがない。
※文中の色文字は鴨長明が用いた用語をそのまま用いています。
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