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■鏡花水月 ~ 私の心をつくっていることなど

更新日2020/02/27

 

第1回: ベージュのすみか

 

ベージュが、今日も満足げな表情で得意そうに、穴から出てあたりを見わたしていた。ベージュというのは、身長が十センチくらいの小さなトカゲで、体の色がベージュ色なので私が勝手に付けた名前だが、ベージュは人間たちがひしめきあって住む十五階建てのマンションの、舗装された駐車場にあいた小さな穴をねぐらにしていて、ほとんどいつでもその回りにいる。

その穴の上を一日に何台の車が通るのかはわからない。穴は駐車場からマンションの外に出るための通路のあたりにあるので、おそらくその近くに車を停めているおよそ三十台程度の車が、出入りのたびに穴の上を通ることになる。危険はないのかと思ってもみるが、しかし考えてみれば、朝晩を除いて昼間の間、駐車場にはほとんど動きはないので、その時間さえ気をつければ特に危険はないのかもしれない。車から出た人とマンションをつなぐ路は別にあるので、ベージュのすみかのあたりを人が通ることは日中ほとんどなく、そのあたりで子どもが遊んでいるのも見たことはない。

穴の大きさは直径がせいぜい二、三センチくらいで、まわりはコンクリート舗装だから、おそらくベージュのすみかは強度的には何の問題もないはずだ。それに車が通るときには、それなりの音とか振動とかがあるだろうから、車が近づいてきたらさっさと穴の中に入ればいいだけの話だ。トカゲにだってそれくらいの知恵はある。私はベージュに代わってそう断言できる。

トカゲだって命ある者として、危険を察知する能力は、生まれた時からしっかり身につけているにちがいない。だからこそ、恐竜が闊歩していた頃から、トカゲは長い年月を生きのびてきたのだ。ぼんやりしていて逃げ損なって、尻尾を車に引かれたりすれば、切れた尻尾がぺしゃんこになって残されているはずだが、そんなものを目にしたこともない。それよりなにより、穴を出る時の、あるいは穴に入る時の、いかにも余裕あり気なベージュの顔つきが彼のすみかの安全性を何よりも物語っている。もしかしたら安全性という点では、奇妙に高くそびえ立つ人間たちのマンションより上かもしれないとさえ思う。

それにしても、ベージュはいったい何を食べて生きているのか。そういえば彼が何かをくわえて穴に入って行くところなど見たことがない。ただ、それも考えてみたら余計な心配かもしれない。若いからかもしれないが、ベージュの肌の色艶はやたらと良く、天気の良い日などは全身がつやつや輝いて、いかにも健康そうに見える。ほんの少し酒を飲みすぎただけで次の朝までそれが尾を引く誰かさんとはえらい違いだと、やや自嘲気味に思わずつぶやいてしまうほどだ。まったく、トカゲの食いぶちの心配をしている場合ではないと、このところの体力の衰えを思うにつけ、世界情勢の先行きを考えるにつけ、日本の経済状況の悲惨さをひしひしと感じるにつけ、はたまた政治の混迷を、これでもかと見せつけられるにつけ、いやホント、それどころではないと思わざるを得ない。

しかもベージュは、われわれ人間にはない荒技まで身につけていて、食料である虫が多い夏には、ベージュは機敏に体を動かすが、トカゲにとって食料難と思われる冬には、なんと冬眠などという、まるで禁じ手のような荒技を使って、春になるのをのうのうと寝て待つのだ。

それより何よりすごいのは、致命的な危険に遭遇した時にトカゲが自らの尻尾を切り、ピクピクと動くその尻尾に敵が気を取られているその隙に逃げおおせるという、手品師顔負けの大技を持っていることだ。

人間にも、肉を切らせて骨を断つという技が存在しないわけではないが、そんな器用なマネが誰にでもできるというわけではなく、たとえできたとしても、サムライの時代でもない今ではもはや使う機会すらない賞味期限切れの技にすぎない。ただ、ベージュの先祖がどうしてそんな技を身につけなければならなかったのかということを考えると、何だか妙に不憫な気持ちになったりもする。なんせ大事な体の一部を、自ら切って落してしまうのだ。

つまりベージュの祖先は何度も何度も、そしてさらに何度も、致命的な危機に遭遇したにちがいない。そしてそんな経験の果てに自分の尻尾を捨て置いて逃げるという、悲しくも滑稽な荒技を身に付けるに到ったのだ。そんなトカゲ族にくらべれば、われわれ人間はどうやらそこまでの危機に遭遇したことはないのだと言わざるを得ない。なにしろ人間は、加齢で髪が抜け落ちるのさえ嘆く始末で、体の一部であれなんであれ、身に付けた大事なものを自らが切り捨てるなどという思い切りの良さとは、よほど遠いところにいる。金にせよ権力にせよ何にせよ……。

もしかしたら苦難に苦難を重ねた進化の先に、われわれ人間も、あるいはトカゲのベージュのような思い切りの良さを身に付けることがあるのだろうか。

 

-…つづく

 

 

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2020年8月1日、当コラムは『メモリア少年時代』と改題され、 未知谷から出版されました。

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谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
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本や歌や建築、さらには自治体や企業のシンボリックプロジェクトなどの、広い意味での空間創造を仕事とする表現哲学詩人、ヴィジョンアーキテクト。
主な著作に『鏡の向こうのつづれ織り』『鳥たちの夜』『空間構想事始』『天才たちのスペイン』、主な建築作品に『東京銀座資生堂ビル』『ラゾーナ川崎プラザ』『レストランikra』などがある。
なお音楽作品として、シンガーソングライター音羽信の作品として、アルバム『わすれがたみ』『OTOWA SHIN 2』などがある。

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