第9回:読んでみる―エロ・グロ・スプラッターな大衆新聞
更新日2002/10/31
例えタイ文字が読めなくとも、タイ語がちんぷんかんぷんだろうと、タイの新聞はただ眺めるだけでも結構面白い。写真がとても強烈なのだ。
タイの主要新聞は一面がカラー写真で埋め尽くされている。その日の目玉となるニュースや記事の写真で、読者の購買意欲をそそろうというビジュアル的戦略なのだと思う。日本の新聞の一面と比べると、それはけばけばしく極彩色だ。タイの仏教寺院のようにキンキラしている。
タイのマスコミの報道姿勢は、露悪的という表現がぴったりする。交通事故の事故現場から強姦殺人事件の顛末、麻薬の売人の警察での事情聴取の模様まで、読者が見たいと思うものはなんでもかんでも載せてしまう。

大衆紙タイラットのある日の一面
水特に衝撃的なのは、遺体の写真が堂々と公開されることだ。心中、自殺、事故、殺人……実に様々な理由で毎日多くの人が亡くなっていく。その人の最期の姿がどんなものだったのか、一面の写真は無言で物語る。ときには血まみれだったり、ときには体の一部が欠損していたり。しかしタイ人は平然とその写真を眺めている。
最初は言い知れぬ嫌悪感を持っていたワタシも、今は平気でニュースに読みふけることができてしまった。どんなに衝撃的な事象でも、何度も接しているうちに人間の感覚は麻痺してしまうのだなと、ヘンなことに感心してしまう。
もともと人間には、死体というものに潜在的な好奇心があるように思う。今から十数年前、某アイドル歌手がビルの屋上から飛び降り自殺を図ったときのことだ。当時ワタシの通っていた高校の教室では、事件の翌日、スポーツ新聞を買ってきたクラスメイトの周りに人だかりができていた。彼女の自殺直後の遺体の写真がでかでかと載っていたのだ。
それを見る皆の目は、「へえ、人間って飛び降り自殺するとこうなるんだ」という好奇心に満ち満ちていた。彼女の遺体の頭部横に飛び散っている灰色の液状物質が脳だとわかったときは、まるで生物標本でも見つめる気持ちになっていたはずだ。彼女が自殺した理由へ対する同情や、あの若さで亡くなった事実へ対する遺憾なんかよりも、好奇心の方が明らかに勝っていたのだ。
高校生のワタシたちは(しかも女子高なので女ばかりだった)、なぜあれほどまでに遺体の写真に興味を示したのかといえば、それはひとえに「今まで見たことがないもの」だったからだと思う。高校生くらいの年代なら親戚で亡くなった人もまだそういないだろうし、しかも残酷な最期の人も少ないだろう。
見たことがないから見てみたい。それは人間の欲求として、ごく当たり前のことのように思う。ただその対象が人間の遺体というだけで。
この単純な理由から引き起こされた殺人犯罪もあった。「人間の死ぬところがどんなものか見たかった」と言った少年もいたはずだ。そういうニュースを耳にする度に、「普段目にする機会がないから余計見たくなるのか」という気がしてならない。
タイではそういうくだらない理由で殺人事件は起こらない。人間の遺体が見たければ、毎朝8バーツを出して新聞を買えばいい。2〜3日買い続ければ、1日くらいは必ず遺体の写真が載っている。もっとおぞましいのが見たければ、CRIME
NEWSと銘打っている雑誌、「アチャヤーガム(犯罪)」を買えばいい。ありとあらゆる遺体がオンパレードで載っている。
タイ人がこれらの写真を見ても平然としていられるのは、単に慣れもあるけれど、タイの仏教思想では、「息を引き取った後の人間の体は、単なる抜けがらである」としている理由の方が大きいように思う。輪廻転生。人間は亡くなっても魂は亡くならず、また生まれ変わる。亡くなった後の体は単なる肉の塊でしかないのだ。
肉の塊と思えば、遺体の状態がどんなに悲惨でも特別な感情が湧くはずもない。市場で売られている豚や牛の肉塊と大差がないのだから。そう思うと、タイ人の感情構造がまたいちだんと理解できなくなるワタシなのである。
第10回:テレビを見る―大衆娯楽の連続ドラマ
