なんということはないファーストフード店の一角が、彼女が入ってきた途端にぱあっと華やいだ。女優と呼ばれる人は、生まれながらにして独特のオーラを放っていると感じた。
永沢純子さんは、ここタイの芸能界で日本人女優として活動している。彼女にとって、子供のときに6年間滞在したタイは第二の故郷といってもいいだろう。そして奇しくも、女優になる夢を抱き始めたのもこのタイという土地でだった。
バンコク日本人学校の小学3年生の頃。日本からプロの劇団が公演にやってきた。演目は『シンデレラ』。彼女はそのお芝居を観ていたく感動し、「自分も同じことをしてみたい」と子供心に思ったそうだ。その日からしばらくの間、近所の友達を観客に1人10役くらいで『シンデレラ』を熱演する日が続く。
春休みに一時帰国をした際に、祖母が連れて行ってくれた宝塚歌劇団の舞台を観た夜は、あまりの感動からか興奮してなかなか寝つけなかった。「絶対に、絶対に、私はお芝居をする役者になりたい!」――彼女はこの瞬間はっきりと、女優の道に進むことを決意する。

タイの日本人女優・永沢純子さん
中学1年が終わる頃に日本へ帰国。高校では念願の演劇部に所属して、同時に東京にある俳優養成スクールに通い始めた。高校を卒業すると「本場の演劇を学びたい」と、渡米して大学で演劇を専攻。5年間を過ごしたアメリカでは、暇さえあればお芝居や映画を観ていたという。
タイ、アメリカの海外生活の中で、彼女は伝統的な日本の芸能に対する憧れを持つ自分に気がつく。一時帰国の度に歌舞伎や新派などを熱心に観劇した。帰国後は俳優養成所を経て劇団前進座にプロ入りをする。着物で白塗りにかつらの時代劇を演じる毎日だった。
劇団に在籍中に、東京でアジアの演劇人が集う国際会議が開催された。彼女は所属劇団の演出家の英語通訳として出席。タイから来ていた舞台監督を見つけ、なんとはなしにタイ語で話しかけてみた。
驚いた監督はタイ語を話せる彼女に親近感を持ち、別れ際には「タイで可能性にチャレンジしてみないか」とまで言ってくれた。「考えてみます」と社交辞令として答えたつもりの言葉が、心の中で大きくなっていくのにそう時間はかからなかった。
入団して2年後、彼女は自分に行き詰まりを感じるようになっていた。舞台だけでなく、映画やCMに出演するなど他の可能性にトライしてみたい。タイ人監督の誘いの言葉がしきりに思い出されるようになる。
そして、2001年2月。決意を新たに、懐かしいバンコクの地を踏みしめる。
その年は更なるタイ語の勉強と、エージェントに自分を売り込むので必死だった。ゼロからのスタート。自分のプロフィールと宣材写真を抱えて、タイの芸能界に関係のありそうなところをしらみつぶしにあたっていく。
翌年に入って、その苦労が少しずつ実を結び出した。オーディションの連絡が入り、合格すると、ドラマ、CM、映画の出演の仕事が入ってくるようになった。日本人役だけかと思いきや、日タイハーフの役やタイ人役もこなす。
日本からやってきた無名の女優に、タイ人側の反応は様々だ。優しくフレンドリーに接してくれる人、必要以上にライバル視する人。同じ役を奪い合うはずがないのに、中年の男性俳優から「日本人の小娘なんかに負けてたまるか」と、競争意識をむき出しにされたこともある。
昨秋にタイで撮影された浅野忠信主演の映画『Last Life In The Universe』では、日本語が堪能なタイ人のキャリアOL役を演じた。タイ人の中年女性らしく見せるために、頭頂部をふくらませた髪型にしてメイクに時間をかけた。
タイ民放局のドラマでは、タイ人のデパートガールという設定だったのに、他の出演者にアドリブで「ジュンコ」と名前を呼ばれたりしたこともあった。
タイで仕事を始めて、「日本人とはこういうもの」という固定観念がタイ人の中に強くあるということを肌で感じるようになる。監督に、「日本人ってこういう笑い方をするでしょ?だからその通りにやって」と言われ、「今どきそんなことをする日本人はいない」と説明してもそれは通らない。彼らはタイ人のイメージの中の日本人を求めているのであって、生身の日本人がどうであるのかはあまり重要視しないからだ。
ハリウッド映画などで誤った日本人像が描かれているのと同じく、タイ人が持つ間違った日本人のイメージを、自分が演じることで少しづつでも取り除けることができたら……と、彼女は考えている。
しかし、自分の舞台をタイだけに限定するつもりはない。タイを拠点としつつも、母国日本、またその他の国でも女優業をしたいと夢はふくらむ。日、タイ、英の言葉を武器に、永沢純子という名前が世界で闊歩することを祈って――。
第25回:タイの日本人・タイ語コラムニスト
