第61回:サンダンス・キッズ_その2
更新日2007/12/20
キッズは17歳になるかならぬかで、すでにプロのカウボーイになった。腕の良い、牛や馬の扱いに長けたカウボーイはどこでも職にありつけた。
ユタ州には、テキサス、ワイオミング、アリゾナなどで見られるような超のつく大牧場はなかったが、ユタで一、二を争う大牧場、L.C.牧場(Lacy
Cattle Company)にキッズは牧童として雇われている。
1886年には牛の価格が記録的高値を呼び、おまけにブレイクされ、調教された馬は飛ぶように売れた時代だった。キッズはL.C.牧場ではブロンコをブレイクする、一番難しく危険の多い仕事をこなした。東部のはしっこい少年は、西部で本物のカウボーイに成長したのだ。
その後、ニューメキシコやユタのほかの牧場(Pittsburgh Land and Cattle Company)で働いている。1886年の夏、キッズはテキサスからカナダ国境近くのモンタナまで数千頭の牛を追い、移動させる、まさに西部劇そのもののドライブ(牛を追って長距離旅することを言う)に加わった。
ドライブでボス格のキャプテンは、無事に目的地まで運んだ牛の頭数で給料が支払われたが、牧童たちは出発地から目的地まで同行して幾らという契約だった。自給自足に近い西部の開拓者たちから見ると、まとまった現金が入ってくるのが大そうな魅力だった。しかし、その一見魅力的な現金も、到着地の酒場や娼婦たちに吸い取られるのが常だった。
キッズのように腕の立つカウボーイは、仕事を見つけるのに苦労はなかった。到着地のマイルシティーから、ワイオミングを経て南下する何十という流れカウボーの群れに身を投じ、その場その場で短期間の仕事にありついている。しかし、それも西部全体が牛や馬のブームに乗っている間だけのことだった。
1886年は市場が最好況で天井を突いたが、同じ年に旱魃が襲ったのだ。おまけにその年の冬、北西部では歴史に残る大寒波が居座り、放牧中の牛馬が大量に死んだ。後に名づけて、"The
Great Blizzard"と呼ばれるようになった寒波は、氷点下43度Cを記録し、1月28日から3日間猛吹雪に見舞われたのだった。
キッズは、2月にワイオミングのクック郡に仕事を求めて現れた。その時すでに文無しの状態だった。馬も鞍も拳銃も食べ物を得るために売り払ったのか、着の身着のままの状態で流れ着いたようだ。なんとか早く南下しようとしたのは分かる。がそこでキッズは初めての、そして彼のその後の人生を分けることになる間違いを犯したのだ。
キッズの衝動的性格がこの事件にすでに現れている。お金も馬も仕事もなく、南下したい一心で、計画性も何もなく行き当たりバッタリで銃を差し込んだままの鞍をつけた馬を盗んだのだ。しかも持ち主は地元で勢力があり、ワイオミング牧畜組合(Wyoming
Stock Growers Association)の有力メンバーで、馬や牛泥棒を容赦なく取り締まることで知られた、スリーV牧場の支配人だったのだ。
馬を手に入れたキッズは南下せず、事情をよく知っているモンタナのマイルシティーに向かった。人間はなかなか自分の行動パターンから抜け出ることができなものだ。旧知の場所に安楽を求めたがるものだ。それにしても、キッズは短絡的にすぎた。シェリフのジム・ライアンは、マイルシティーにキッズが現れたという情報を得ると、即座に駆けつけ、いとも簡単にキッズを逮捕したのだ。キッズは抵抗らしい抵抗もしなかった。
マイルシティーの留置所にしばらく預けられた後、4月12日、ジム・ライアンはキッズを伴って窃盗が起こったワイオミングのクック郡まで護送の旅についた。ここから、いかにもキッズ的な活躍が始まる。キッズは足枷と手錠をかけられ客車の座席に鎖で繋がれ、しかもライアンが向かいの席に警護の目を光らせている状態でマイルシティーに向かった。
ここでどうにもよく分からない理由から、恐らくシェリフのライアンの個人的な用のため、直接ワイオミングへ向かわず、ミネソタのセントポールを経由する遠回りの路線の汽車に乗っているのだ。
列車がミネソタのダルース(Duluth)に差し掛かったとき、ライアンが車両の後方にあるトイレに立った。それまで何度もトイレに立ち、キッズ一人を座席に残し問題がなかった。足枷、手錠、しかも鎖がしっかりと座席の鉄パイプに回っているのだ。おまけに汽車はかなりのスピードで走っていた。
トイレから帰ったライアンが見つけたのは空の座席と手錠、足枷だった。キッズは手品師ヨロシク鮮やかな脱出を成功させたのだった。
ライアンは汽車を止めさせ、線路沿いを捜索したが、手がかりさえつかめず、空の手錠と足枷、鎖そして傷ついたプライドをワイオミング、クック郡に持ち帰っただけだった。
…-つづく
第62回:サンダンス・キッズ_その3

