第8回:Butch Cassidy 少年時代
更新日2006/11/23
ブッチが生まれたパーカー一家はこの界隈の農家と同じように自給自足に近い生活を始めた。
小麦は夏の終わりから秋にかけて植え、一冬越した春に収穫するが、サークルビルに移住した初めの年、蒔いた種麦が烈風で吹き飛ばされ、3度も種籾(もみ)を蒔かねなければならい不運に見舞われた。またその冬、後々まで語り継がれるほどの厳しい寒波に襲われ、乳牛が2頭しか生き延びることができず、父親のマックスはのっけから生存をかけた試練に直面したのだった。
唯一の選択は、マックスがまた出稼ぎに出、賃仕事をしてお金を家に送ることだった。一家8人を食べさせなければならない上に、借りた種籾や乳牛の返済もしなければならなかった。マックスは枕木を山から切り出す賃仕事(*1)につき、以前にも増して家を空けることが多くなり、家族揃って暮らす夢は初めから崩れていった。しかしその後もマックスとアン夫妻は切れ間なく7人の子供を作り続けていったのだが。

キャビンのほぼ真ん中は石のタタキになっているので、
そこに暖房、料理多目的薪ストーブを据え付けていたのだろう。この小屋に13人寝ていた秘密は中二階にあった。
小屋の半分だけ天井があり、厚目の板が張ってある。
そこへ梯子をかけ、吹き抜けの寝室として使っていたようだ。
ブッチの妹ルラは母親がそこへ部屋の仕切りのように
布切れのカーテンを下げた日のことを語っている。
昔のことになるが、山形で家が何代も続いている百姓の息子と共同生活していたことがある。借りたアパートに猫の額ほどの庭が付いていたのを、かの山形の友達は何時間でも、暇が許す限り、何をしているのかその土をいじっていた。恐らく雑草を取ったり、株分けしたり、私にはとても想像もつかない"土イジリ"に精をだしているのだ。根っからの百姓は違うな、と感心したことだ。
父系マックス・パーカーの家系には百姓の血は流れておらず、マックスの父、ロバート(ブッチの祖父)も工員、職人だったし、アメリカに渡る前にも後にも農作業に勤しむことはなかった。母方の家系も同様である。言ってみればマックスは山形の友人のように土にへばりつくて離れない百姓ではなかった。ブッチ一家がサークルビルに入植してから舐めた辛酸は自然がもたらしたというより、父親マックスの牧畜の経験不足、その土地にあった農業への不適応とみてよい。
父親だけではなく、母親アンも12マイルほど川をさかのぼったマーシャル牧場に家政婦として働きに出、ブッチもサークルビルに移住したその年にライアン牧場(Patrick
Ryan)に牧童として働きに出たのだった。13歳のことである。
今でもよく言われることだが、あまり早く世に出すぎると、目先の現実しか見ない、少年の心と夢をなくした小さな大人になってしまい、大きく羽ばたくことができなくなる、後年大成するような人物は必ずどこかに子供の感性をもっていると聞かされる。
余談だが、13歳という年齢を思いつくまま並べてみると、高田屋嘉兵衛(廻船商で北洋漁業の開拓者)はその歳に"いい歳をしていつまでも親に食わせてもらっているわけにいかない"とばかりに家を飛び出し、商家、和田屋に丁稚奉公に出ているし、ジャンジャック・ルソーも13歳で時計の徒弟奉公に出ている。ミケランジェロがドメニコ・ギルランダイヨの工房に弟子入りしたのも同じ13歳の時なら、宮本武蔵が有馬善兵衛と初めての果し合いを行ったのも13歳のときだ。
イギリスの多くのパブリックスクールも親の根を断ち切るように12、3歳から全員入寮させている。たしかウィンストン・チャーチルが入寮したのも13歳のときだ。彼らとアウトローの親玉になったブッチとを並べる滑稽さは承知の上だが、13歳前後が精神的乳離れの歳ではあるようだ。

ブッチが少年時代を過ごしたキャビン。
ユタ州の道路観光案内地図(Utah Road & Recreation
Atlas、Benchmark Maps, Medford, Oregon)に名所旧跡
として載っているほどだ。ブッチの甥、マークが集めた
開拓当時の家具、農機具、ワゴン、食器類を展示してあり、
誰でも自由に小屋を見ることができ、木陰に据え付けられた
ピクニックベンチでくつろぐことができるようになっていたそう
だが、1974年に大掛かりな記念品漁りの泥棒に展示品
一切をごっそり持ち去られ、今は荒れるにまかせている。
私が初めて訪れた2002年から次回訪れた4年後の2006年
の間にも人の棲まないキャビンは崩壊が進んでいた。
小屋が潰れるのは時間の問題のようだった。
ブッチは長男として不在がちな父親代わりにごく若いときから開拓部落に必要なあらゆる力仕事をこなしてきた。これはどこの開拓民も同じような事情だったろう、家族全員が血眼になって働かなければ食べていけなかった。サークルビルに入植した一年目に一家が危機に瀕したたとき、「よし、俺も外で稼いでくる」と家を出たのは自然の流れだったと言ってよい。
ブッチが13歳で大の大人と同じ仕事をこなしただけでなく、雇い主のパットは最大級の賛辞をおしまず、"安心して仕事を任せられる""責任感が強い""どんな辛い仕事でも率先してやる"と褒めちぎっているので、すでに一人前の牧童に成長していたと思われる。
カウボーイの仕事には若さがなくてはできない種類のものが多かった。馬の背で一日過ごさなければならない上、若い牛に焼印を押すとき、馬上から投げ縄で牛を捕らえ、素早く馬から降り、牛の首に抱きつき、柔道の捨て身の技のようにひねり倒し両足を縛るのだが、それを日に何十頭とこなせるのは若さのもつ反射神経と身体の柔らかさがなくてはできない仕事だった。
一番危険な仕事は放牧してある馬を"ブレイク(Break)"することだ。今まで放し飼いにしてあった馬(ブロンコと呼ぶ。野生の馬に近い)に鞍を置き調教する一番最初の段階で、馬の野生性を文字通りブレイクし、打ち破り、人間の意志に従わせるのだ。何度振り落とされてもあきらめることなくまた馬の背に乗る、ロデオの世界だ。ロデオの選手も皆歳若い。皆が皆骨折を十数回し、それでも野生馬をブレイクすることを止めないのは若さの特権といってよい。
ブッチはとりわけ、このブレイクが得意だった。人間に従うことに激しく抵抗する馬ほど、後に優れた強い馬になる傾向があるそうだが、ブッチには生涯良い馬に入れ込む癖が残った。また馬の資質を見分ける目もこの頃に養われたのだろう。
カウボーイの仕事は自分の牧場を持たない限り、危険ばかりが多く、重労働の割りに見入りの少ないものだった。寝るのは馬小屋か納屋で、それも多くの先輩カウボーイたちに片隅に追いやられるように牧草の上に毛布一枚分のスペースがどうにか確保できればよいほうだった。食事だけは母屋の台所で大きなテーブルを囲み、牧場の持ち主家族や他の牧童と一緒に、トウモロコシとパン、スープを主体にした同じメニューを365日摂っていた。豆類はグルメ食品でめったに口に入らなかった。
そしてその給与だが、1880年代に中西部のカウボーイたちがいくらもらっていたのか、ブッチの給料はいくらだったのか、明確な源泉徴収は残っていないのであくまで推測だが、パーカー牧場で住み込み、3食付で週1ドルから
2ドルの間くらいだったろう。母親のアンは現物支給で卵、穀物、自分で作ったチーズの何割かを貰っていた。
*1:Silver Reef Mineの鉱山鉄道の枕木をPine Valley
Mountainから切り出す仕事に就いた。当時ユタ州やコロラド州では次々と金銀鉱が見つかり、健康な身体さえあれば仕事はいくらでもあった。この仕事の後、マックスはFrisco(San
Francisco連山、カリフォルニアではない)で同様の仕事をしている。
…-つづく
第9回:Butch
Cassidy 法との係わり合い

